第20回定期大会(1999) 於:上智大学

記念講演

Peter Smith "Challenges to Governance"

加州大学サンディエゴ校スミス教授の講演の結論は、「グローバライゼーション下、政府は十分な統治を行うことができるか?その答えはYesである」というものであった。とすれば、今後、その条件が比較研究をふまえて体系的に整理されることを期待したい。
スミス教授によれば、来日前に用意された一般仮説とは以下の6つであったという。1)国民国家の意義は減じていない。2)政府の能力は多様であり、アジアと中南米について一般的な質の比較は無理である。3)外的な挑戦に対する政府の対抗力は、経済分野ではあまりないが、政治分野では大きく、社会分野ではその中間である。4)国家の役割は多様であり、経済分野では補完的役割が重要で、社会・政治分野(麻薬運搬や腐敗)では政府介入は無駄に帰す場合がある。5)国家の能力は、危機の回避能力と対処能力に分かれる。6)統治への最大の挑戦は、問題事項により統治の次元が異なることであり、地方分権や地域統合が効果的手法となる分野が増えている。
教授は本講演前日に上智大学で行われたラウンド・テーブルを要約しながら、中南米及びアジアの統治の諸相を聴衆に伝えてくれた。以下が筆者の関心をひいた発見・報告である。韓国経済はその構造的脆弱性から、対外的な短期金融圧力を契機にして経済危機に陥った。ブラジルをロシアなど他の国と一括して新興経済と括ることには問題がある。タイの経済危機の社会面への影響は家族的紐帯によってある程度まで食い止められている。メキシコでは犯罪が逮捕にまで至る比率はたった2.5%である。インドネシアとベネスエラは共に長期間継続した政体から、片や民主政体へ、片や軍部主導的な非民主政体への移行という異なった方向に向いつつある。
このように、「アジア=奇跡、中南米=停滞」なる図式を超えた、アジア危機以降の野心的な比較研究・横断的プロジェクトが紹介された。
(久松佳彰 東京大学)

中川和彦「インディアス法をめぐって」

氏はスペインおよびラ米各国の商法・経済法を専門とする、本学会では数少ない法学者(成城大学)である。本講演は続くシンポジウムの導入として、カトリック聖職者の与えた影響を論じながら、三世紀余りにわたるスペイン王室のインディアス支配における法制度の形成・発展過程を俯瞰することにより、法を「文化のひとつの表現形式」として捉え、その歴史的変遷を示そうとしたものといえる。
予期せぬ新領土を獲得したカスティーリャはその統治のための法制をにわかに準備しなくてはならなかった。初期の段階では、ドミニコ会修道士モンテシーノスによる植民者糾弾の結果、「先住民の処遇に関する勅令」いわゆるブルゴス諸法が公布された。それらは実際は遵守されなかったとはいえ、これを契機として、スペインがインディアスを支配する正当な権原を有しているかという論争が有識者の間に生じ、王権による先住民の法的保護が成文化されていくことにもなった。国王直属のインディアス枢機会議は、試行錯誤の上のカスティーリャ法を修正・変更しては新領土の諸条件に適合させたり、必要であれば新しい法令を制定したりして、膨大な諸法規を編纂した。「インディアス法」とは、コロン以降アメリカの植民地で施行されていた法全体のことを指し、バスコ・デ・プガにより初めて体系的な法令集が集成されたのはフェリペ二世の治世である。植民地の実態が多様化するにつれて、現地の副王、総督、都市などに立法権および勅令に対する自由裁量権が認められるようになり、しかもレガリスモが災いして植民地行政は硬直化したため、法律外に解決の道を探る事態も生じていった。
このようにして生まれたインディアス独自の慣習法や判例法クリオーリョや先住民の社会においていかに展開されていったかは興味深い問題であり、インディアス法史国際学会における今後の研究成果が待たれる。因みに、ブエノスアイレスに本拠を置く経済統合研究所では、将来展開されうる市場統合を睨んだ法の統一に向けて、インディアス法の再評価が検討されているという。現在のラテンアメリカ法を理解するためには、植民地時代の法を調べ沿革を熟知しなければならないということである。
(北條ゆかり 滋賀大学)

シンポジウム「ラテンアメリカ社会の形成におけるカトリック」

司 会 高橋 均(東京大学)
報告者 乗 浩子(帝京大学)
斎藤 晃(国立民族学博物館)
荒井芳廣(大妻女子大学)
ベルナルド・アスティゲーダー(上智大学)

今回のシンポジウムはテーマが壮大なだけに、司会の高橋会員が基調報告に代えて、ラテンアメリカにおけるカトリシズムの多面性と求心性を概括したのち、報告に移った。
乗会員は、マクロ的視点から政治勢力としてのカトリックの動向を報告した。特に1960年代以降の教会の改革路線、解放の神学に対するパチカンの対応など、中南米の政治状況の下でカトリック教会が果たした役割の変遷が紹介された。
一方斎藤会員は、パラグアイの事例に依拠しつつ植民地社会におけるイエズス会ミッションの位置づけというミクロの視点を提示した。修道会組織であるミッションと教会組織であるドクトリーナの区別や、パラグアイにおけるミッションの特異性などを通じ、植民地社会におけるカトリシズムの浸透のプロセスを明らかにしていった。
このような、言わば制度的な宗教活動に対し、荒井会員の報告は組織化されていない個人レベルにあらわれるカトリシズムに焦点を当てるものだった。具体的にはチカーノ社会にみられる家庭祭壇に着目し、キッチュなポップ・カトリシズムが個人の生活史と密接に結びついている点を取り上げた。
最後のアスティゲータ会員は、自身が司祭である立場を生かし、内側の視点から接近を試みた。ラテンアメリカ研究におけるカトリックの重要性、および研究に際しての留意点などを思想史的側面から包括的に捉えた報告は極めて示唆に富むものであった。
時間的な制約があったため残念ながら自由討論は行われず、会場から書面で寄せられた質問に各報告者が答えるにとどまった。質問の総数は不明だが、各々が一、ニの質問に答えたところで時間となり、シンポジウムはそそくさと終わった。
様々な切り口の報告を関連させられたら、きっと興味深い議論になったのではないだろうか。会場はほぼ満席で、活発な論戦を期待する雰囲気も充分に感じ取れた。ぜひとも続編の開催を期待したい。
(久野量一 東京外国語大学大学院)

研究発表

第1分科会《開発と社会》
司会 山崎圭一(横浜国立大)

本分科会の報告はいずれも現地(日本含める)に根ざしたきわめて興味深い内容の実証研究であった。共通して社会開発分野のトピックが扱われたといえる。各発表に続いてフロアと報告者との間で活発なやりとりが展開された。その中からいくつも重要な論点が浮かび上がったが、以下4点抜き出そう。先進的な保険・医療プログラムが導入された州(セアラ州やペルナンブコ州)とそうでない州に分かれる要因は何か(第1報告)。教育問題を分析する際に企業内人事制度と学歴の関係を問う必要があるのではないか(第2報告)。ブラジルにおける女性の教育レベルの向上をどう評価すべきか(同上)。最近10年間の日系人社会の取組みや変化は(ブラジル人学校「ピタゴラス」の設立など)、全体として肯定的に評価すべきなのか、そうでないのか(第3報告)。以上に関するフロアと報告者が示した見解は省略するが、筆者(司会)は途上国や日本の地方自治の新しい展開に関する議論だと勝手に解しつつ、報告と討論を堪能した。

ブラジルの乳児死亡率改善対策プログラム -その成果と限界-
高木 耕(国際協力事業団)

ブラジルのペルナンブコ州では、1994-1998年の4年間で、乳児死亡率を43%減少させることに成功した。その原動力となった保健医療政策は、国家プログラムである「コミュニティ・ヘルスワーカー制度」と、「家庭保健制度」である。前者は母子保健に重点を置いた家庭訪問制度であり、後者は地域密着型の医療チームを農村や貧困住宅密集地に住込みで勤務させる制度である。保健医療行政の地方分権化を促進しているブラジルでは、このような国家プログラムも、その導入規模や進捗状況が州や市によって大きく異なっている。その理由は、地域的な社会格差に伴う財政難によるものであるが、州知事や市長が支持を受けている政党の顔色次第で国家プログラム採用の是非を決めていることや、地方分権を積極的に進めると、選挙等で市政が住民の審判を直接受けることになるため、地位の保身を図る市長が権限の移譲に否定的な態度を採ることなどが大きい。国際協力の現場で経験する「技術的問題以前の困難」の一例として報告した。

財政改革のブラジルにおける教育政策 -人口移動と中西部の進学熱-
古賀雅人(ブラジル連邦立マット・グロッソ大学大学院)

伝統的な生活・生産・消費様式を約300年間保守し続けてきたマットグロッソ州の州都クイアバ市では旧住民が彼らに比して新知識への適応能力、多くの資本、高い教育レベル、高い情報収集能力を持つ新住民の流入により地理的・経済的に周辺化され社会階層の下層に位置しつつある。しかし近年の都市化はまた情報通信インフラストラクチュアの整備をも伴っていることから情報アクセシビリティが地域全体として拡大し、いわゆるグローバライズ化された社会発展の文脈上、より高い社会階層を目指す住民の高学歴志向の結果、貧弱な公教育を補うべく私学や予備校が次々と開校されている。開発途上地域の旧住民が急速な都市化によって周辺化されつつあるのに対し、生活様式を変容させながら教育機会を獲得することを手段として自らのアイデンティティを保持していこうとする過程を、財政改革下のブラジルにおける教育政策の歴史的な潮流と絡めて報告した。

出稼ぎ現象がおこした日系人の階層化
コガ エウニセ イシカワ (日本学術振興会)

本報告では日系ブラジル人が出稼ぎ者として来日しはじめてから現在までの10年間の実態を紹介した。この間彼らの日本での生活実態の変化に注目した。現在においても来日当初の短期滞在出稼ぎ者という意識を持つ人が多いため、彼らの仕事や住居の形態にあまり変化がみられず、なお自発的は日本社会への参加あるいは日本への永住を目的としている人はまだ稀である。しかし一方では、彼らの意識とは裏腹に日本に長期滞在をする人が多く、日本での家族形態の変化がみられた。特に子供の教育問題に顕著にあらわれている。現時点においえ、在日日系ブラジル人の生活実態および日本の学校に通う子供たちが高校や大学へ進学することは困難である現状から、彼らは日本社会の下層に位置しはじめている。今後、日系ブラジル人の日本における生活状況改善のためには、彼ら自身が自分たちの置かれている状況を認識し、子供たちの教育問題に取り組む必要性のあることが明らかになった。

第2分科会《歴史学》
司会 鈴木 茂(東京外国語大学)

歴史学の分科会では、大久保教宏「メキシコ革命と禁酒運動」、伏見岳志「エスノヒストリー研究におけるいくつかの視点」の2本の報告が行われた。参加者は両報告を通じて約30名で、報告後に質疑が活発に交された。まず、これまでラ米史研究ではほとんど注目されてこなかった禁酒運動をめぐる大久保報告については、そもそもこのテーマをどのような問題意識と分析枠組みから取り上げるべきなのかが主な論点になった。報告者は近代化への転換点としてのメキシコ革命という文脈でこれを位置づけようとしたのに対し、16・17世紀にまで遡るコロニアリズムの言説全体、あるいは「脱呪術化」過程における位置づけが出来るのではないかとの問題提起がなされた。一方、伏見報告については、メキシコのナワ人社会を論じた先行研究に限定した研究史整理であったため、ラ米のエスノヒストリー研究についてどの程度一般化が可能なのかといった今後の課題が提示された。

メキシコ革命と禁酒運動
大久保教宏(慶應義塾大学)

1920年に制定された米国禁酒法がラテンアメリカへ及ぼした影響についてはこれまでほとんど明らかにされてきていないが、米国主導のパンアメリカニズムが強力に推進されたこの時代、ラテンアメリカの為政者には禁酒を唱える者も現れ、時間、地域などで限定された部分的禁酒法が制定されるケースもあった。また、社会運動としての禁酒運動も次第に活発となるが、これを担ったのが主にプロテスタンティズムであった。
もちろん、ラテンアメリカの禁酒運動は米国からの影響を抜きにしては語れないが、ラテンアメリカがなぜ禁酒運動を展開させたかという受け手側社会の文脈上における理解も必要である。本発表ではメキシコを事例に、革命の途上にあって国民統合を求めるメキシコの必要に応じて、プロテスタンティズムが戦略的に禁酒運動を推進していく経緯をたどりながら、「米国文化」がメキシコ社会に輸入される動機、経緯の一端を明らかにする。

エスノヒストリー研究におけるいくつかの視点
伏見岳志(東京大学大学院)

先住民を主人公とするエスノヒストリー研究には①敗者としての受動的な変化を強調する立場、②支配を変容しつつも、何とか生き延び日常的抵抗を繰り返すことで社会が維持されると考える立場、③支配者に放置され、社会は容易に維持され、無意識的に変化が起きるとする立場がある。本報告では、それぞれの立場の違いが生じた原因、お互いの対立点、補完点について、ナワ集団に関する著作のうち、ギブソン、テイラー、ロックハートの著作を中心に考察した。
違いの原因としては特に、研究のなされた時期、立脚する史料、援用する理論、という要因を挙げた。各要素の違いによって、各立場が限定されるので、どの見解も絶対的ではなく、お互いが批判しながらも補完しあうものであることを示した。他の要因として、各著作のメタヒストリカルな喩法や、喩法選択の政治的文脈もあるが、今回の報告からは割愛した。

第3分科会《文学》
司会 斎藤文子(東京大学)

文学の分科会は、隣室の大人数の熱気とはうって変わって、報告者、司会を含めても参加者8、9名という小人数の中で行われた。
真下会員は、Roberto Juarrozの作品の詩作品を介して、「詩とは何か」について考察した。オクタビオ・パスと共通するところの多い、しかし日本ではほとんど知られていない詩人を紹介した意義は大きい。Cortazarの初期短編を取り上げた大西会員は、Cortázarにおける「幻想的」なものとは何かを整理して解き明かした。それぞれに対し、フロアから適切なコメント、質問が出され、報告内容を補う形となった。
同じ時間帯に文学作品を取り上げたパネルが行われており、文学研究の会員はほとんどそちらに参加していたようである。当分科会は、2人のアルゼンチン現代作家を論ずる興味深い内容のものであり、参加者が少ないのは残念であった。プログラムの組み方に、より細やかな配慮が必要だったのではないか。

Roberto Juarrozの詩における言語、人間、現実
真下祐一(学習院大学)

O・パスの研究者として名高いJavier González Luna博士の指導によるこの研究は、アルゼンチン詩人Roberto Juarroz(1925―1995)の作品Tercera Poesía Vertical(1965)における、詩の言葉の根源的な批判性、創造力についての検討をねらいとした。詩テキストが具体的に実現する場所を読者の意識の変革過程に見出すことは、言語、人間、現実の関係を理論的に主題化するための要請であったが、M=ポンティの『知覚の現象学』から基本的な概念を援用することで、詩の言葉の発動をより普遍的な現象として理解することが可能となった。採用された議論の枠組みは典型的なものであるが、近代詩における思考の重要性をこの表現形態が担う歴史的役割との関連で問題化する結論へと導き、詩人の独創性をとりあげるに十分であったと考える。本発表はコロンビアで客死した研究者、伊藤文雄に捧げられている。

コルタサルの作品における寓意動物の世界 -「偏頭痛」を中心に-
大西 亮(神戸市外国語大学大学院)

コルタサルの処女短編集『動物寓意譚』には、不可解な謎に包まれた動物がおびただしく登場するが、それらはすべて、人間の心理や内面を映し出す象徴としての役割を担っている。「偏頭痛」に登場する架空の動物マンクスピアも、登場人物たちを悩ます奇妙な病気(=偏頭痛)を外面的に形象した生き物であるという意味で、観念的な存在である。この場合、偏頭痛とマンクスピアの両者が、それぞれ一個の独立性を保ちながらも、ひとつの連続によって結ばれていることに注意しなければならない。「幻想的なもの」をめぐるコルタサルの現実認識がそこに色濃く反映していると考えられるからである。理性や論理によっては捉えられない“隠された類似性”の原理は、「幻想的なもの」の世界に関心を抱きつづけた彼にとってとりわけ重要な概念の一つであり、さらに、夢や深層意識に密着した彼の小説作法を根底から支えるものであった。

第1パネル《ラテンアメリカにおけるジェンダー -女性の政治参加を中心に-》
コーディネーター 今井圭子(上智大学)

1980年代以降現在までを対象に、ラテンアメリカにおける女性の政治参加の動向を明らかにすることを課題に、アルゼンチン、メキシコ、コスタリカ、プエルトリコ、キューバの5か国をとりあげ、比較研究を試みた。報告者はそれぞれ今井、国本伊代(中央大学)、奥山恭子(帝京大学)、志柿禎子(岩手県立大学)、畑恵子(早稲田大学)。これらの国々を選んだのは、各国が女性の政治参加における異なった類型を代表する事例として考えられるのでないかという仮説に基づく。
各国比較の柱として、以下の3点に焦点をあわせて報告がなされた。
①1980年代以降の女性の政治参加にみられる変化
②女性の政治参加をめぐる立法、政策
③女性の政治参加を支える思想、価値観
対象時期に女性の政治参加がかなり進展したのはアルゼンチン、コスタリカ、メキシコで、アルゼンチン、コスタリカでは世界的にも先駆的な女性職員候補割当法を、前者は国および地方レベルで、後者は地方レベルで誕生させた。メキシコは割当法の制定には至らないまでも、女性議員の増加をはじめ女性の政治参加の実情を地道に積み上げている。プエルトリコはかつての奴隷制社会の遺産を背負い、女性を軸とした家族社会の成り立ちが女性の政治参加を推進する側面もみられる。またキューバは革命以降女性の政治参加が急速に進んだが、最近手痛い気味で、Uターン現象もみられる。
討論はラテンアメリカにおけるジェンダー問題の特異性、女性の上層、中層、下層の3層からなる階級構造と、下層女性労働に依存した中・上層女性の社会・政治進出といった社会構造、そしてそうした問題に対する女性たちの認識の仕方などを中心に進められた。時間切れで十分討論できなかったことが残念である。

第2パネル《criolloとはなにか -「自文化」を語る試み》
司会 木村秀雄(東京大学)

本パネルにおいては、文化人類学・文学・歴史学・思想研究の4学問分野の研究者(東京大学大学院・総合文化研究科・地域文化研究専攻・博士課程)が、criolloという共通テーマをめぐるさまざまな問題を論じた。演題は、発表順に、①ベネズエラcriollo文化における「アフロ」の位相~「白色化」から「黒色化」へ(石橋純)②新しい文学の創設に向けて~カルペンティエールとアストゥリアスにおけるcriolloの利用(寺尾隆吉)③記憶/証言と「歴史」の緊張関係~歴史記述としてのRoa Bastos, Hijos de hombre(坂野鉄也)④ガウチョ詩とアルゼンチン文学~『マルティン・フィエロ』は国民的なのか(長野太郎)であった。
4発表および、フロアから寄せられた数多くの質問・コメントをもとにした討論を通して、さまざまなテーマが浮き彫りになると同時に、それが相互に関連し合っていることが確認できた。特に、土着的なものエスニックなものが、国民文化の成立や再編(石橋・長野)、文学の創造(寺尾)、新しい歴史記述(坂野)に用いられる共通理解であった。しかし、それは政治の一部となり(石橋)、創作の基盤としては結局放棄されてヨーロッパ的なものへの回帰をもたらしたり、それに同化しようとするあまり創作としての理解を困難にしたり(寺尾)、ヨーロッパ的な記述と併置されることによって複声の記述を導いたり(坂野)、土着的なものの流動的現実を切り落としたり、文学史の制度化をもたらしたりする(長野)など、複雑な過程をたどって各国の歴史の中で様々な貌を見せているという新たな理解が生まれた。
criolloの意味は各国で大きく異なるが、数多くの問題につながる大きなテーマであり、学際的な研究分野の協力によって将来にわたり大きな学問的実りをもたらすものであることが確認できた。

第3パネル《ラテンアメリカにおけるNGO》
コーディネーター 三田千代子(上智大学)

NGOについて包括的・総合的に検討する初めての試みとして本パネルが組織された。①ホルヘ・アンソレーナ(上智大)「ラテンアメリカにおける住民運動とNGOのかかわり」、②北森絵里(天理大)「住民組織の限界と選択肢-リオデジャネイロ貧困層の生活実践にみる貧困への適応-」、③田村梨花(上智大・院)「NGOによるコミュニティ教育-ブラジル、ベレンの事例から-」、④山形文(フォスター・プラン)「住民参加によるフォスター・プランの植林プロジェクト-エクアドル-」の4報告で具体的な事例が紹介され、その後に設けられた総合討論の時間(約30分)で幅広く活発な議論展開された。なお、司会は浦部浩之(愛国学園大)、出席者は55名。
あえて不満の残った点だけを誇張して述べれば、次のようになろう。
各報告にあったとおり、今日のNGO活動は単なる弱者救済にとどまらず、人々のエンパワーメントに一定の成果を上げつつある。しかし、活動の組織化が常に成功しているとは限らず、パトロン-クライアント関係に基づく利益誘導やマフィアの活動が介在してしまう素地も多い。
これらの点をめぐり、社会のマージナリティ構造を問題視する意見が多く提示された。重要な論点ではあるけれども、これは今までにも再三いわれてきたことである。また、この構造を決定論的にとらえて議論を閉じてしまう傾向が強いのも気がかりであった。問題とされるべきは、自由と参加が拡大する(はずである)民主主義の時代にNGOがいかに機能できるのか、あるいは機能するべきかを見極め、研究上および実践上の問題把握や課題設定を行うことであろう。残念ながら、討論はそこまで至らなかった。
また、今回の事例報告は住民組織や住民運動に傾いていたため、議論もこれに集中した。人権や環境など問題領域を広げ、NGOの機能、問題点、可能性についてあらためて包括的に検討する必要があろう。
(浦部浩之)