第24回定期大会(2003) 於:神奈川大学

第1分科会《先住民社会の変容1
司会:山本匡史 (天理大学)

第1報告はかつて 「先住民村落」 であったメキシコ市南西部のコミュニティを対象とした都市人類学的研究で、都市共同体における紐帯を 「地元民(nativo, ser de aqu)」という概念を通じて模索しようとする意欲的なアプローチを示した。続く第2報告はグァテマラ高地における先住民共同体の染織の生産と使用の状況を伝統的連続性にとどまらず、現代における社会変化のなかで位置付けようとした実証的研究であった。 そして第3報告ではメキシコ・ワステカ地方のナワ先住民村落における婚姻制度の変遷をたどりつつ、近代化と移民という背景のなかで生起する女性のイニシアティブの変化とその限界が明らかにされた。4名の若手研究者によるこれら3本の報告はいずれも緻密なフィールドワークに基づいたものであり、先行研究をふまえながらも従来の先住民研究の枠組みを越えた斬新な視座を提示するものであったといえよう。初日の最初のセッションではあったが数十人の参加者を得、限られた時間ながらもさまざまな角度から核心をつく質疑応答がおこなわれたことで、各報告者の今後の方向性に少なからぬ示唆がもたらされたのではないかと思われる。(文責 山本匡史)

「メキシコ市拡大によってのみ込まれた旧先住民村落の現在」
禮野美帆 (慶應義塾大学)
井上幸孝 (立命館大学)
「伝統織物の意味変容-グアテマラ先住民村落の事例より」 (慶應義塾大学)
本谷裕子 (慶應義塾大学)
「フリーユニオン」 か 「慣習婚」 か?-メキシコ・ワステカ農村における 「結婚」 とジェンダー
山本昭代 (東京農業大学)

第2分科会《グローバリゼーションと移民》
司会:田島久歳 城西国際大学

イシカワ・エウニセ・アケミ (鹿児島国際大学) は、「ブラジルの出移民の現状」 と題する発表で、まず1970年代ブラジル国内における農村から都市への人口移動が起ったが、80年代には移動先が海外へと変化したことを指摘した。その後、出移民先 (アメリカ、パラグアイ、日本、ヨーロッパ諸国) の紹介および行き先別の移動動機、受け入れ国の関連政策、を紹介してから、海外におけるブラジル政府の自国民支援活動 (法的支援を含む行政的対応など) についての分析を試みた。発表は、近年のブラジル人の出移民状況の流れを概観するものであるが、今後は出移民先ごとの特徴についてのより緻密な検証とテーマの整理が期待される。福田友子 (東京都立大学大学院) による発表 「滞日ペルー人の移民過程 -統計資料の検討-」では、 カースルズ&ミラーの提唱する移民過程の4段階モデル (第1段階は若年の単身労働者の一時的移民が主で、 海外送金と帰国志向が強い段階。第2段階は滞在の延長に伴い、社会的ネットワークが発達する段階。第3段階は家族呼寄せが開始し、 エスニック・コミュニテイが形成される段階。第4段階は永住権や市民権が獲得できるか否かの分岐点となる、永住の段階。) の検証を滞日ペルー人の事例をとおして試みた。具体的には主に入管協会の統計データを用い、フィールド・ワークに基づく資料が補足的に活用された分析である。 山脇千賀子 (文教大学) の報告 「リマにおける社会移動とグローバリゼーション-社会階層と空間の再編成-」 においては、 まずグローバリゼーションとは「脱領域化」 的性質をもつ空間的・時間的編成という社会的作用を引き起こし、従来の完結した一社会内での社会移動を前提とした 「古典的」 研究枠組みでは捉えきれない現実にアプローチする視点が必要になっていることが指摘された。そのうえで、 90年代以降のリマにおける社会階層とそのライフスタイルに関する報告者の調査資料をもとに、グローバリゼーションが社会に与えている影響について検証し新たな理論構築に一石を投じる試みとした。 イシカワ発表においては、入移民地域や出移民の歴史的背景と特徴の分析に関する一層の深化を、福田発表においてはフィールド・ワークの結果と理論的検証の整合性を、山脇発表ではケース・スタデイーより広範な現地調査を踏まえた分析を、今後に期待したい。 (文責:田島久歳)

パネルA 「文学と現代社会-都市・記憶・歴史」
コーディネーター:斎藤文子 (東京大学)、久野量一 (法政大学)、石井康史 (慶應義塾大学)

過去が 「歴史」 としてではなく 「小説」 として語られることで、 新たに開示されうるものがあるとすればそれは何か、 その過去は現在とどのように連絡されているか、という問題意識にもとづいて、 三つのケーススタディを報告した。

「回想と歴史記述-テレサ・デ=ラ=パーラ 『ママ・ブランカの回想録』 における女性の物語について」
石井康史

『ママ・ブランカの回想録』(1929年)は、世紀転換期ベネスエラのコーヒー・砂糖プランテーションにおける子供時代の回想であり、六人の娘たちとその母親の生活を活写する断片群から構成される。娘の要望に合わせて母が19世紀のロマン主義作品を自在に換骨奪胎し新しい物語へと変貌させるシークエンスが、女性による物語批判としての本作品の、物語構築にかかわる主張を象徴する言説であるという作業仮説を、本発表ではテクスト分析をつうじて論証した。

「バランキリャとマコンド  歴史のない町」
久野量一

マコンドの創設から消滅までの忠実な年代記と思われがちな 『百年の孤独』 だが、テクストを丁寧に読むと、語りは必ずしも完全な編年体になっているわけではない。今回の発表では、この点に潜むガルシア=マルケスの作意を解明すべく、作者が若いころを送ったバランキリャという土地とのかかわりに焦点を当てた。彼がこの町に寄せた情熱を考察するとともに、 〈歴史のない街〉として書かれるバランキリャの歴史記述を検討し、 『百年の孤独』 とバランキリャ史が重なり合う可能性を見出した。またこの作業を通じて、ガルシア=マルケスが征服・植民地・独立といった大きな事件ではなく私的出来事を描こうとする態度を身につけた背景に、バランキリャ体験が深く関っていることを示唆した。

「バレンスエラ 「武器の交換」 における政治・ジェンダー・言語」
斎藤文子

1970年代後半のアルゼンチン軍事政権下の体験を、 小説家はどのように表現できるかという一つの事例として、 Luisa Valenzuela(1938-) の中編小説Cambio de armas (1982) を取り上げた。 記憶喪失ゆえに、 自分を表現する言葉をもたない従順な妻が権威主義的な夫の絶対支配下に置かれているという家庭生活の裏側に、監禁された政治犯と軍部側の人間という別の物語があることを明らかにしていくこの作品は、 政治暴力の恐怖のさなかに一体何を語れるのかという作家の葛藤から生み出されたものであることを明らかにした。(文責 石井康史)

シンポジウム1

「カルチャー・パワー・アイデンティティ-エスニック運動の世界的意味と私たちの応答-」
コーディネーター:石橋 純 (東京大学)
  1. 太田好信 (九州大学) Looking Back to Move Forward, Together: Guatemala and Japan Caught in an Uneven Process of Decolonization
  2. 山本純一 (慶應義塾大学) Los Zapatistas y el Imperio: posibilidades de la multitud
  3. 鈴木茂 (東京外国語大学) Multiculturalismo y Conciencia Histórica en Brasil : Posibilidades de Movimientos Sociales
  4. Daniel Mato (ベネズエラ中央大学) Organizaciones Indígenas, Cooperación para el Desarrollo, Antropólogos y otros Profesionales en la Producción de Representaciones de Identidades Étnicas

このシンポジウムに参加した発表者4名は、 以下に示すゆるやかな発題にもとづき、 最新の研究成果を反映したペーパーを準備し、 大会に臨んだ。まず第1に、 「グローバル化」 にともなう諸問題が全地球を席捲する1990年代以降、 ラ米におけるエスニック運動はどのような状況で展開しているのか、という問い。 「グローバル」 「ナショナル」 「ローカル」 という主体間の、 《せめぎ合いの多様性》を、 最新の事例研究の中から提示してもらおうという意図であった。第2点は、 このような運動を研究対象とする 「私たち」 (日本/ラ米に拠点をおく研究者) が、 運動に対して応答するしかたはどのような形で想像/創造しうるか、という問いであった。 学術研究という知的営為が、 政治・経済・社会をめぐる同時代の地勢学と密接に結びついて発展してきたという認識が広く浸透しつつある現在、「民族」 「民衆」 の 「文化」 や 「運動」 を研究するという活動は、 政治的に中立な 「科学」 ではありえない。 では、 「現地エリート」の戦略的本質主義を前に、 研究者は沈黙するしかないのか? このような問いに対する4発表者の異なる立場が示されることを意図した。企画の取りまとめを担当し、壇上で司会を務めた筆者とって、 企画意図がどの程度達成されたかを評価することは能力を超える。 以下、 そのような限界と偏向を前提として書き進めたい。まず、 山本発表では、 問題の 「解決」 を志向する 「実学」 の立場から、 新自由主義経済に対抗するサパティスタ運動の可能性、 また、 サパティスタ運動と共鳴し、連合しうるNPO、 NGO、 協同組合の活動の可能性を示唆した。 太田発表ではグアテマラ和平後問題とされれる 「脱植民地化」 という鍵概念をとりあげ、この言葉のもつ歴史的位置や主体的行為への喚起力に注意を促した。 この鍵概念から照射することによって、 第2次大戦後の日本社会と旧植民地の人々との関係構築を「現在」 の問題として捉えかえす可能性が提示された。 鈴木発表では、 ブラジルの黒人運動が少数派の異議申し立て運動から出発し、 国政参加に至る発展過程を概観した。運動発展における 「市民社会」 の役割を評価するとともに、 黒人運動が差異を前提とする新自由主義的社会観に回収される危険性も指摘された。 マト発表は、米国スミソニアン博物館が毎年開催する 「アメリカン・フォークライフ・フェスティヴァル、 文化と開発プログラム」 に関する資料にもとづき、 グローバルな主体とローカルな主体の交渉過程を紹介した。件のイベントにおいて 「環境」 「生態系」 「種の多様性」 あるいは 「文化」 といった今日的な鍵語の意味やこれらを駆使した言説構成を運動家が集中的に獲得し、先進諸国のNGOや国際機構との交渉に用いる様が描かれ、 「グローバル化」 と一括される価値のやりとりの民族誌的文脈が明らかにされた。  今回のペーパーでは「現実の解釈」 にとどまるマト氏であったが、 運動との連帯の可能性に関して、 印刷媒体に依存する学術論文という手段の限界を指摘。 現実を変革すべく日々運動にコミットする活動家は、主力メディアとして他に様々な方法やそれらの複合を選択している。 研究者として運動に直接応答する際もまた、 こうした媒体の多様性を考慮しなければ対話の可能性は開かれないことが指摘された。こうしたマト氏の指摘を踏まえ、 研究対象とする 「民族」 「文化」 「運動」 とのそれぞれの関りを日本側発表者3氏が披瀝したならば、 この企画の主旨を踏まえた有意義な議論が展開したであろう。しかしながら、 時間の不足によって残念ながらこのような意図は実現しなかった。 司会者の力量不足を恥じ入るばかりである。 (文責 石橋 純)

第3分科会《イメージの想像》
司会:三橋利光 (東洋英和女子学院大学)

「イメージの創造」という思索的・芸術的表題を頂くこの分科会は、「インディヘニスモ」 にかかわる3人 (メキシコ人類学者・ペルー作家・EZLN指導者)に関する報告である。

  1. 大村香苗 (お茶の水大学院) 「マヌエル・ガミオとフランツ・ボアズにおける"nation" 概念の比較 (1909-1925)」 は、米国人類学者フランツ・ボアズの影響を受けたメキシコ人類学者ガミオが、 "nation"概念においては、 なおメキシコの特殊性を意識し強調せざるを得なかった背景を丹念な比較方法により明らかにしたものである。会場での質問にあったように"nation"概念の明確化は必要であるが、 今後の研究の発展が楽しみである。
  2. 高林則明 (京都外国語大学) 「アルゲーダス 『すべての血』 の評価をめぐるノート-1965年の公開討論を中心に-」は、 アルゲーダスの『すべての血』 への評価が、 当時の既成体制側 (特にアンリ・ファーブルを含めた知識人層) によるアルゲーダスへのやや不公平と見られる個人的確執や無理解・批判・攻撃が底流となって、「不当にも」貶められるに至った過程を詳細に追跡した報告であった。 緻密な研究態度に感服した会員も多かったろう。
  3. 小林致広 (神戸市外国語大学) 「コウモリ人間とトウモロコシの人間-EZLNにおける先住民神話」 は、 世界を驚かせたEZLNのあのマルコスが語る「老アントニオのお話」が、時期的に1996年を境にしてそれ以前はチアパス・マヤのコウモリ人間という言説が支配的であったのが、 それ以後はキチェ・マヤのトウモロコシ人間=真の人間という言説が支配的になったという変遷があったことともに、そのお話がEZLNの使命感とも結びついていることを改めて理解できる報告であった。インディヘナが置かれている状況とその突破口をイメージの創造に求めようとする今回の分科会企画は識見と含蓄がある。3人の報告を聴いた後に浮かぶイメージは、「自己と社会とのイメージの葛藤」とでも表現したらよいのかもしれない。 (文責 三橋 利光)

第4分科会《失われた20年?》
柳原 透 (拓殖大学)、 久松佳彰 (東洋大学)、 重富恵子 (東海女子大学)、 渡邊 暁 (東京大学大学院)
コメンテーター 狐崎知巳 (専修大学)

本分科会は、ラテンアメリカでの1980年代以降の経済/社会/政治の各面での推移を跡付け、 到達点と現在の課題を明らかにすることを目的とした。「失われた20年?」 という設問は、基本において経済面 での実績についての評価から発している。 本分科会では、 3つの報告と討議を通して、経済面での評価の視点と基準を明示するとともに、 社会面/政治面については、 それぞれに固有な動因についての理解を示すことと、経済面での推移との関連を明らかにすることが企図された。経済面では、 過去20年間における生産性の向上の欠如が示され、 教育面での前進が経済発展に結実していないことが指摘された。 ただし、チリ (そしてある程度はメキシコ) について、新たな経済発展メカニズムの確立 (あるいはその萌し) を認めうること、そして背景要因として長期にわたる産業基盤の形成が重要である、との見解が示された。社会面では、 都市化の趨勢と 「都市市民」 のNGO活動の活発化に関心が向けられる一方、 「旧市民」 と 「新市民」の対比、 青少年世代の帰属意識、 少年犯罪や暴力など社会問題にも注意が払われ、 広範な貧困と社会分断が存在する中での 「市民社会」 の質が問われ、また不安・不満が高まりつづけた20年との総括がなされた。政治面では、1980年代以降のラテンアメリカ地域における民主化と民主体制の定着の進展を確認するとともに、民主体制への広範な支持と政党・政治家への広範な不信感が共存していることが指摘され、さらに近年の重要なイシューである官僚制や地方政治の改革についての考察がなされた。以上の報告に次いで、 80年代以降の経済改革の目的、 内容、 成果の評価、 Human Security の観点からの現状の評価、経済・社会の変化の政治面への影響などの諸論点をめぐり討議がなされた。限られた時間ではあったが、経済/社会/政治の各側面を関連付けて問題提起し、またさらなる検討課題の確認ができたことは大きな収穫であった。(文責 柳原 透)

パネルB  「国際関係史におけるジャポニスモ―スペイン語圏と日本との関係を中心に―」
コーディネーター 浅香幸枝 (南山大学)

本パネルではパラグアイ・ラプラタという特定の地域が対象となっているが、 三つの報告は共通の視点や枠組みを提示するものではなく、むしろそれぞれの発表をとおして共有できる問題点を模索するのが狙いであった。 従来の歴史研究は国民国家の枠内にとらわれがちであることから、 三つの報告をとおしてそれを払拭することも目的の一つであった。

ジャポニスモとは、 日本の物品や美術品に対する関心のことで日本趣味とも言い換えることができる。 19世紀後半にフランスを中心に発達した。 本パネルでは、それに留まらず、深く自然と結び付いた日本の文化・美術がヨーロッパ人などに与えた文化的影響をジャポニスモとして扱う。 また、 国際関係史においてそれを位置付けようと試みる。最初に、ラウル・ニボン大阪国際大学助教授が 「スペインとポルトガルにおけるジャポニスモの起源」 を報告した。 16世紀から17世紀のスペイン人とポルトガル人宣教師の書いたものから、ヨーロッパにおける日本イメージの際立った点を明らかにした。「色白、礼儀正しい、優美、有能、 良く学ぶ」 と言ったイメージが共通している。日本と中国はラテンアメリカと異なり宣教時に土着の文化を尊重するようにという位置付けがなされている。今井圭子上智大学教授が 「アルゼンチンの主要紙にみる戦前の日本観・日本移民観」で、 戦前のアルゼンチンにおいて日本に対する関心が著しく高揚したのは日清、日露両戦争とその間に締結された日亜修好条約を通してであり、 これらの歴史的事象について掲載された日本に関する記事を資料としてアルゼンチンにおける日本観を明らかにした。「優れた開発労働力、 自由移民・呼び寄せ移民の優位性、 移住国への同化」を受入れ賛成論者は述べている。  浅香幸枝南山大学助教授は 「ジャポニスモによる日本人移民の原初イメージ」の報告の中で、 1912年、 1917年、 1920年 (スペイン)、 1958年 (メキシコ)、 1959年 (グアテマラ) で出版された人気作家エンリケ・ゴメス・カリーリョの著作に見る日本像と日本人像は、パンアメリカン日系協会のリーダーとのインタビューとの比較から 「誠実、 勤勉、 責任、 技術」 と重なる。 1980年代から経済・政治で存在感を増し、さらに、 アニメーションや自動車や精密機械、日本食のブームは第4のジャポニスモの波と言えるのではないかと指摘した。以上の報告から、 スペイン語圏における日本のイメージの良さは、宣教師の報告や過去のジャポニスモのイメージが繰り返され増幅されて今日に至っていることが確認された。 政治、 経済、 文化のいずれが欠けても良好な国際関係は築くことはできず、アジアにおける日本観と比較した時に、 日本とスペイン語圏との良好な国際関係が最初の良きイメージの出会いがあったことに起因していることはもっと評価して良いのではないかと思った。フロアからの質問も活発な有意義な2時間となった。 (文責 浅香幸枝)

パネルC 「現代ブラジルにおける政治と都市問題」
コーディネーター 住田育法(京都外国語大学)
コメンティター  山崎圭一(横浜国立大学)

本パネルでは、 現代ブラジルの民主化の進展、 労働者党 (PT) 大統領の登場という政治変動を基底に、 新旧首都の事例を取りあげつつ、 広大な空間をかかえるブラジルの都市化における社会格差の問題を考察した。まず、 住田が総論として、 ブラジル現代政治史における都市問題の展開を位置づけ、 谷口恵理が、 「ブラジリア連邦区における社会格差と政策―衛星都市低所得者層向け住宅政策」報告で、 低所得者層向けの住宅政策である賃借住宅プログラム (PAR) に注目し、 この実施地の一つであるサマンバイア (Samambaia) を取りあげ、 現行の住宅政策の検証を試みた。 田所清克は、 「<うるわしの都>リオの社会・文化空間の一部としてのファヴェーラ」 と題して、 リオのファヴェーラ化現象を文学誌を通して検証し、さらにリオでは他の地域に比べてファヴェーラにおける富裕化の傾向があり、 階層化も進んでいることを示した。 奥田若菜は、 「ブラジリア建設・衛星都市形成の歴史にみるブラジル社会」報告で、 既存の衛星都市以外に、 政府がファヴェーラの全住民を移転させるために建設を計画した、 新たな衛星都市セイランジャ (Ceilandia) の現実を、 谷口同様、 写真を利用しながら説明した。各報告者へ山崎圭一がコメンテーターとして 「大都市の社会変動の背後に情報化や脱工業化といった経済構造の変化が関係しているのか」、 「政府の政策がどの程度住民の要求に対応できているのか」、 「<文化>としてのファヴェーラを残しつつ生活上の困難を解決する道はあるのか」 など質問した。フロアからも、 十分な時間を取ることができなかったものの、 「近代都市リオのライバルであるサンパウロの報告が欲しい」 との指摘などがあった。こうした質問や要望は若い2人の研究者の現地調査を含め、 報告者全員の今後の研究に生かされるにちがいない。 (文責 住田育法)

「現代ブラジルにおける新旧都市の役割と社会格差」
住田育法 (京都外国語大学)
「ブラジリアの社会格差と中央政府の社会政策」
谷口恵理 (筑波大学大学院)
「うるわしの都」 リオ・デ・ジャネイロの社会・文化空間の一部としてのファベーラ」
田所清活 (京都外国語大学)
「ブラジリア建設・衛星都市形成の歴史に見るブラジル社会」
奥田若菜 (大阪大学大学院)

第5分科会 《自由論題》
司会:新木秀和 (神奈川大学)

3名の報告と各々への質議応答が行われた。 尾立報告へは、 英領と比べた仏領の海外県のあり方や政策法制面での変化を問う質問があり、 竹村報告へはモンヘ大統領の政策へのコメントがなされ、桑原報告についてはデータの読みに関する質問が出された。テーマは別々だが、 全体として 「政治経済の諸問題」 を討議する場となり、 地域の多様性を改めて示しながらも問題意識の相互関連が生まれたことは収穫だった。

「フランス海外県の創出と展開-マルティニークの例から」
尾立要子 (神戸大学大学院)

「海外県」 は、 1946年に創出された。 法案提出者のエメ・セゼールは、 これにより植民地への社会保障・公正・社会発展の実現を考えていた。しかし、 当初の構想とは異なり、 本国同様の法律が適用されるには30年以上を要した。 海外県は、 80年代に 「海外州」 の制度化に伴い、 非ヨーロッパに位置する「県」 と定義付けられ、 以後社会保障制度が本土並みに提供されていくこととなった。 報告では、 1) このような変化の要因を、 「県」 制度の変遷に注目しつつ、市民権の深化という観点から検討し、2) マルティニーク周辺の非独立地域との比較を試みた。

「コスタリカ1983年中立宣言再考」 ~再評価のためのフロー情報ストック化の試み (中間報告1) ~
竹村 卓 (富山大学)

2003年対イラク戦争をコスタリカ政府が支持したため、 同国の言う 「中立」、具体的には1983年11月「永世」「積極的」「非武装」中立宣言を改めて再検討する必要が生じた。「中立」 という用語が使用されるに至った経緯、 宣言が国際的に受容された過程には、解明されなければならない問題が残っている。解明のためには、今後、フローの多い中米紛争時情報のストック化を試み、その内容を継続的に検証する予定である。

「ルーラ政権下の日伯関係-民間資金フローの見通し」
桑原小百合 (国際金融情報センター)

日本からブラジルへの民間資金フローについて、 政府、 国際機関等の統計を使って近年の動向を分析した後、 製造業や商社、 金融機関などへのアンケート調査、ヒアリングに基づき今後の見通しを探った。ブラジルは中長期的に有望な投資先として位置付けられており、 ルーラ政権についても好意的評価が多いが、当面は従来どおり慎重なスタンスが続こう。 投融資先としてのブラジルの位置付けの見直し、 新たなリスク回避手法の採用などが必要と思われる。

(文責 新木秀和)

第6分科会 《先住民社会の変容2》
司会 三澤健宏 ( 津田塾大学)

「先住民と学校教育-メキシコの事例」
受田弘之 (日本学術振興会特別研究員)

受田宏之氏は、 メキシコにおける先住民の教育水準の低さについて、 供給因と需要因から説明した。 さらに、 受田氏が現地調査を行ったケレタロ州、オトミーのコミュニティの事例が挙げられ、 政府による資金援助プログラム (PROGRESA) の与えたインパクトについても述べられた。 会場からは、子供の就学によって生じる機会費用と、 教育を受けることのメリットの相関関係について等の質問があった。

"Comunidades indígenas versus procesos de modernizacíon"
Carlos Vicente Fernández Cobo (京都産業大学)

カルロス・ビセンテ・フェルナンデス・コボ氏は、 近代化の過程が先住民共同体に対してどのような影響を及ぼすのかとの問題意識に基づき、 先住民がその文化固有の経験知識を保持しながら同時に普遍的な文化を資源として利用することの可能性について、自身の考えを述べた。 この点について、 先住民言語が多数存在する状況でのスペイン語教育の果たす役割について質問がなされた。

「グローバリゼーションと現代インディヘナ青年層の生活・意識-オアハカ州とグアテマラの事例」
三橋利光 (東洋英和女学院大学)

三橋利光氏は、 庶民によるグローバル秩序の構築は可能かという問いから、 ラテンアメリカにおいては社会的に下層を占める先住民が、 なかでもその将来を担う青年層が、どのようなアイデンティティを有しているかについて、 主に個人主義志向であるのか、 共同体志向であるのかという視点から考察した。 事例としてはメキシコ・オアハカ州とグアテマラの若者へのインタビューが使われた。会場からは、 先住民の青年層が、 自身が国籍を持つ国家への帰属意識を越えて、 移住先アメリカ合衆国での生活に関心を抱く状況をどう捉えるのか、といった質問があった。

「メキシコ、リヴィエラ・マヤ地域の観光開発とイメージ」
杓谷茂樹 (南山大学)

杓谷茂樹氏は、 メキシコ、キンタナ・ロー州に位置するリヴィエラ・マヤ地域の観光開発戦略について、 画像も用いながら論じた。 具体的には、 リヴィエラ・マヤに、有名リゾート地カンクンに付与されているイメージに対抗するかたちで、 別のイメージが戦略的に付与され、 開発が進められてきたその過程を追い、なぜ「リヴィエラ」 と名付けられたのかについても説明された。 会場からは、 誰がどのような目的をもってそのような戦略をとったのか、 といった質問がなされた。このように発表テーマは多岐に渡り、 「先住民」 をめぐって様々な角度からの報告と質疑応答が行われた。

(文責 三澤健宏)

パネルD "The New Lula Presidency: Prospects for Brazil and Latin America"

The purpose of this panel was to explore the economic, social, and political consequences that the new government of Brazil is likely to have in Brazil, in other Latin American countries, and in intra-hemispheric relations. A related goal was to generate a debate on these issues and to stimulate further work on a subject that promises to be of the utmost importance during the next few years at least.  The panel was coordinated by Neantro Saavedra-Rivano (University of Tsukuba), and had the participation of the following scholars:  Prof. Nelson Altamirano, University of Tsukuba ("Impact on the South Ameri-can energy sector"). Prof. Akiko Koyasu, Kanda University of Foreign Languages ("Political significance in Brazil and Latin America"). Prof. Mari Minowa, University of Tsukuba ("Social policies").  Prof. Shoji Nishijima, Kobe University ("Macroeconomic impact in Brazil and Latin America"). Prof. Neantro Saavedra-Rivano, Uni-versity of Tsukuba ("Impact on Hemis-pheric economic integration"). About 40 people attended the panel and a lively debate followed the main presentations. All presenters used PowerPoint files to highlight their main arguments, and this certainly helped to make the presentations more systematic and to convey efficiently to the audience the desired information. All members of the panel were highly satisfied about the event and we expect to continue research on this subject. Report prepared by: Neantro Saave-dra-Rivano

パネルE 「20世紀ラテンアメリカ現代美術とシュールレアリズムの関係の再考」
大橋敏江 (名古屋造形美術大学)、中村尚明 (横浜美術館)、野中雅代 (青山学院大学)
司会 加藤 薫 (神奈川大学)

当パネルの開催理由は以下の事項に拠る。最近のラ米美術研究の動向は 『メキシコ壁画運動』 の呪縛からの解放と、 西欧現代美術の文脈で語られてきた言説への根底的懐疑という二つの側面が顕著になってきている。この二面から重要再検討課題として浮かび上がってきたのが、 シュールレアリズムの問題であった。 しかし、リアルタイムでシュールレアリスムを体験してきた研究者の世代交代で議論の基盤が脆弱化しつつある。そのためシュールレアリズム運動の経験や成果をラ米文化という枠組みの中で語る時の残された課題に何があり、 どのように次世代に継承してゆくか検討してみたかった。中村尚明氏はウイフレド・ラムの1940年代の作品にアフロキューバ的なものと西欧的錬金術の結合原理としてチュン という中国の 「道」 思想の存在を示唆し、西欧人のラム研究では未着手の分野を明らかにした。 フロアからの質問にもあったように今後はその表象が画面上の記号として解読されるのか、 内面化された表現手法として存在するものかの検討が課題であろう。大橋敏江氏はマリア・イスキエルド作品に対する定番的アルトナン・アルトーの言説を紹介したが、 今後はそういった西欧側の評価のテクスト分析の必要性を改めて実感した。また絵画表現ではジョルジュ・デ・キリコやP・ゴーギャン作品の外縁にイスキエルド作品がある (これもまた西欧的観点!) こととメキシコ的であることの差異と同質性の検討が残されている。野中雅代氏はキャリントン、 バロ、 ラオン、 オルナといった西欧から移住してきた女性美術作家をとりあげ、 例えばキャリントンがケルト的魔術世界を意識しながら日常の手仕事を世界の変質に使っていったが、この種の創造力の源泉を検討してゆくことによってメキシコ的、 あるいはラ米的特質が明らかになるという道筋を示した。 フロアからは何故メキシコが西欧シュールレアリストに選ばれた土地となったかという基本認識に迫る質問もあったが、パネル内では十分消化できなかった。 (文責:加藤 薫)

シンポジウム2

「グローバル化の時代のラテンアメリカ -21世紀に向けての提言-」

司会:後藤政子 (神奈川大学)

グローバル化の時代において新自由主義経済体制の導入は不可避であるといわれているが、貧困問題の深刻化を初め、その負の側面はあまりにも大きく、もはや座視することはできなくなった。それに代わり得る発展モデルはあり得るか。 あるとすればいかなるものか。そこに到達するにはどのような道があるのか。本シンポジウムはそのための 「希望の水脈」 を求めようとしたものであったが、新自由主義体制の不可避性や評価など基本的な点で報告者の間にも、またフロアにも、認識の違いがあることが明らかになった。 しかし、具体的に検証すべき問題点がはっきりした点でシンポジウムは意義があったと言ってよいであろう。なお、 当初、 報告者として予定されていた吾郷健二氏が不測の事態のために参加が不可能になり、佐野氏に急遽、ピンチヒッターをお願いした。佐野氏はラテンアメリカにおける新自由主義体制は大土地所有制などこの地域に長期的に存在する構造と「不幸な化学反応」を起こし、矛盾をいっそう歪んだものとしたと指摘し、新自由主義構造とラテンアメリカ固有の構造とを転換し、新たな開発のパラダイムを積極的に模索・構築していくべきだと主張した。一方、 柳原氏は、当日午前に行われた同じ題名のパネルでの報告や議論の総括する形で報告を行ったが、1人あたりの経済成長率その他の指標をみても1980年代以来の20年間は経済的にも政治的にも社会的にも 「失われた20年であった」 と結論づけた。 しかし、チリでは新しい発展のメカニズムが確立したとしており、新自由主義については必ずしも否定的ではない。一方、 堀坂氏は、 1990年代は多国籍企業のプレゼンスの大幅拡大とその 「謳歌」 の時代だった捉える。 しかし、輸入代替工業化への逆戻りはできない以上、「多国籍企業を飼いならす」 こと、そのために 「公正な市場環境整備」 等の対策が必要であると提案した。グローバル化の時代においてはいかに問題は多くとも新自由主義以外に選択肢はないという立場である。これにたいし、小池氏はブラジルの例を挙げ、 市場・国家に 「人民協同組合」等の連帯経済の原理を埋め込んだ開発のオルタナティブの構築を訴えた。「連帯経済は市場・国家に替わるものではない」 としながらも、 新自由主義の転換を求めるものである。新自由主義をめぐる認識の差には「チリ問題」が影を落としている。 チリの評価については、 新自由主義においては労働のフレクシブル化が機軸の一つになっているときに、所得格差の拡大や貧困ボーダーライン層の膨張、あるいは一次産品輸出経済の限界などがチリ型発展を阻害しないのかどうか、選挙による政権の交代が続いていることをもってガバナビリティが確保されているとみなしてよいのかどうかなどの問題についての具体的な検証が必要だが、議論はそこまでに至らなかった。いずれにせよ、新自由主義の矛盾を是正するために国家の役割が必要とされるという点では報告者もフロアもほぼ一致していたとみてよい。だが、 では国家はどの程度、 いかなる局面に介入すべきか、新自由主義がもっとも激しい形で浸透しているラテンアメリカにおいて国家の介入は可能か、などについては具体的に論じられなかった。 堀坂氏が提起する 「多国籍企業の飼いならし」 や小池氏の「市場原理への連帯経済の埋め込み」 についても、新自由主義のもとで国家が変容している以上、 果たして可能なのかどうか。 さらに、佐野氏や小池氏が指摘したように各国の相違もある。こうした問題を具体的に検証したうえで、議論すべきときがやって来たといってよい。このほかフロアから環境問題も含めた多角的な視点から新自由主義について論じるべきであるという意見など、さまざまな議論が出され、 最後まで活発に議論が繰り広げられたことは画期的なことであった。 (文責 後藤政子)