第26回定期大会(2005) 於:早稲田大学

6月4日(土)、5日(日)の両日、早稲田大学において第26回定期大会が開催された。第1日目には3つの分科会、2つのパネル、1つの特別ワークショップがもたれた後、記念講演が開かれた。講演者のペルーのサンマルコス大学教授、ルイス・ミリョネス博士はペルーのサルア村に伝わる伝統的板絵を通して、村の変遷史を語られた。総会の後は主催校の本部棟で開かれた懇親会に多数の参加があった。第2日目には3つの分科会、1つのパネル、それに「ラテンアメリカを〈越境〉する」というタイトルでシンポジウムが開かれた。また、両日、ペルーの先住民出身の民俗芸術家、エディルベルト・ヒメネス・キスペ氏の線描画展が開かれた。次期定期大会の開催は日本貿易振興機構アジア経済研究所に決定された。 (山崎眞次)

記念講演

Dr. Luis Millones “Historia y Memoria en los Andes: los Pintores de Sarhua”

インカ人は、ローマ人と同じく征服した諸民族から有益かつ価値があると思われる文化諸要素を吸収し、ヨーロッパ人の侵略をうけるまで、それらの文化要素を自文化のなかで見事に総合してみせた。しかしインカ文化そのものは、必ずしも彼らが征服した諸「国家」の文化水準を凌ぐものではなかった。たとえばインカの造形美術や金銀細工の技術は、チムー王国のそれに比してはるかに稚拙であったので、その地方の征服の際にはインカがそこの職人を帝都クスコに移動させ支配者の保護のもとで作業させている。他方、このことはナスカやワリの土器を飾った図像が、インカの芸術家たちの簡素で整然とした様式に取って代わられてしまったことを考えれば、インカの好みではなかった技術や芸術は無視され消えてしまう運命にあったということを暗示している。私は今、アンデス文化を対象に研究をすすめるなかで、絵画に注目している。というのも、16、17世紀になるとその地域にはヨーロッパから対抗宗教改革、バロックといったそれまで知られていなかった絵画のスタイルが、教化という名のもとに怒濤のように押し寄せてくるからである。とりわけ、その潮流は、宗教的テーマが描かれる場合に人間を絵画の題材とするという点で大きな意味をもつ。インカ美術は、他の大文明たとえばイスラーム文化に見られるように、人物に関する表象を軽視する傾向にあった。しかし、スペインによってもたらされたカトリック美術は、それが人物を題材とするという意味において、インカの美意識、美的価値観に大きな変化を与えたのである。
そうした変化を内面化しひとつの芸術として、過去2世紀にわたって伝統の歴史的深度を検証できるものにサルワの板絵がある。サルワはペルー、アヤクチョ県に位置する山村だが、そこでは遅くとも19世紀中葉から長さ2メートル以上、幅30センチほどの板絵を制作しそれを新築されたばかりの家の梁にはめ込むという慣習が見られる。その板絵は、緒婚し新居を構える若夫婦にコンパドレから贈られるのが慣わしである。板絵には、正方形ないし長方形に仕切られその一コマ毎に家族一人一人を主人公とした日常や出来事が描写される。描かれた中身は、彼らにとって重要な記憶媒体となる。サルワの板絵の技術や伝統は世代を越えて伝承されてきたが、彼らは絵を描くことを生業としてきたわけではない。サルワの人々はつい最近まで、農耕やリャマ、アルパカを中心とする牧畜を基盤とし、貨幣経済よりも、むしろ財と労働の交換がより価値をもつような社会に生きてきたのである。サルワの板絵に大きな変化がおこったのは1970年である。その年はじめて、祭礼用の絵入りの梁すなわちサルワの板絵が、軍事政権の政策の一環として首都リマに運び出され一般の目に晒されることになったのである。幸い板絵はそこで高い芸術的価値を認められた。とはいえ、装飾品としては大きすぎるとの理由から、それを購入しようとする者はほとんど現れなかった。そこで、板絵を場面ごと、すなわち40~60センチの長さに分けるという販売方法が考案される。こうした方法が確立し10年ほど経るとサルワの板絵は市場に流通しはじめる。ただ、政権交代に伴う政策転換のせいで板絵そのものへの支援が停止されたこと、また板絵の商業化がすすむと、もともと大きくはない市場はすぐに飽和状態に達してしまったこと、また、板絵の制作を注文で行うサルワ出身の絵師たち(もはや農民や牧民ではない)がリマに移住し、生地から離村したことにより、サルワの伝統はいまや消滅の一途をたどっているように見える。
一方、商業化された板絵には、アンデス山中の生活一般、祭り、最近ではセンデ口・ルミノソの到来といった出来事も描き込まれ、観光客や一般市民の嗜好に合わせたさまざまな題材が選ばれるようになっている。 (加藤隆浩:南山大学)

特別企画「エディルベルト・ヒメネス・キスペ線描画展」およびワークショップ

現代の世界においては国内の内戦や虐殺による犠牲者数が、国家間の戦争による犠牲者数を凌駕している現実がみられる。ペルーでは、1980年に「ペルー共産党センデロ・ルミノソ」がアヤクチョ県で武装蜂起した。以後、センデロ・ルミノソとその鎮圧のために派遣された政府軍及び警察の双方による文民の虐殺が行われた。2003年に提出された真相究明と和解委員会の最終報告書は、1980年から2000年までの犠牲者数が6万9,280人であったと推計している。このうち、46%がセンデロ・ルミノソ、30%が政府軍や警察などの国家、24%がその他の原因によると報告された。その他の原因には、MRTA(トゥパック・アマル革命運動)、農民自警団、自警団、戦闘のなかで判明しなかった犠牲者等が含まれる。報告書の重要な点のひとつは、犠牲者のうち約75%が先住民族言語の話者であったこと、つまり犠牲者のうち先住民族の割合が著しく高かったことを、数値という目にみえるかたちで示したことにある。また、40%以上がセンデロ・ルミノソが武装闘争を開始したアヤクチョ県の犠牲者であったと報告された。
エディルベルト・ヒメネス・キスペ氏はアヤクチョ県の出身で、ペルーの先住民族の大半を占めるケチュア語を母語としており、故フロレンティーノ・ヒメネス氏を父とする著名なレタブロ(箱型祭壇)作家の家族の一員である。80年代から暴力を経験した先住民族の人々にインタビューをし、その証言をもとに作品を制作している。また真相究明と和解委員会、人権団体のもとで調査をおこなった経験もある。研究大会では証言と対になった線描画の展示をおこなった。暴力の時代に先住民族地域で起こった出来事は、当時ペルー国内でも十分明らかにされないまま、多くの村が廃墟となった。アヤクチョ県には現在も未調査の秘密墓地が数多く残っている。その理由のひとつとして、植民地宗主国からの独立がクリオーリョ(criollo)と呼ばれる新大陸生まれのヨーロッパ系の人々を中心に達成され、人口の半数弱を占める先住民族系の人々が今日も周縁的な位置にあるという、ペルー社会のポストコロニアル状況があげられる。このようななか、ヒメネス氏の作品は暴力の時代を先住民族の目線から描いた貴重な記録となっている。なお特別展示、特別ワークショップは一般公開した。
今回のヒメネス氏の来日は、地域研究コンソーシアムと日本ラテンアメリカ学会によって実現した。招聘に多大なるご尽力をいただいた大会実行委員会の諸氏も含め、関係機関に記して深謝したい。

特別展示

ヒメネス氏の作品は、センデロ・ルミノソがいかに先住民族の村に侵人し、恐怖で人々を支配し、さらにその鎮圧のために派遣された警察、政府軍がどのように略奪、暴行を働き、人々を虐殺していったか、自警団がどのように組織され殺戮に加わっていったかということを、証言という言葉と絵という視覚表現によって雄弁に云えるものであった。また、住民を動員していく世界の他の地域で展開してきた、あるいは展開しているジェノサイドとの共通性も示された。本学会定期大会における展示会の開催は初めての試みであったが、「現場」を共有してきたヒメネス氏の作品のもつ力によって多くの関心を集めた。

特別ワークショップ:先住民族の虐殺と記憶―ペルーの「暴力の時代」

まず細谷がペルーの暴力の時代の概略を話し、ヒメネス氏の紹介をおこなった。その後、ヒメネス氏から、暴力の時代に先住民族地域で展開した虐殺のプロセスについて、写真や作品をまじえながら報告がおこなわれた。また、作品の成立背景についてもふれられた。次に、グアテマラのマヤ系の人々のエスノ・ジェノサイドの事例とそこから生まれた芸術表現を日本に紹介している飯島みどり会員、及びサパティスタをはじめとするメキシコの先住民族運動について研究している小林致広会員からそれぞれコメント、質問がなされた。会場からも活発な質問がよせられ、センデロ・ルミノソ・政府軍、先住民族の間の人種、民族関係や、加害者と被害者が入れ替わるジェノサイドのありかた、ジェノサイドの記憶をどのように歴史化していくかなどに議論が及んだ。 (細谷広美:神戸大学)

研究発表

分科会1<政治・外交> 司会:岸川毅(上智大学)

今日のラテンアメリカ諸国の政治・外交の諸側面について、4人の報告者が考察を行った。フォックス政権におけるメキシコ外交政策の変化と継続性を考察したロメロ・ホシノ報告、ペロニスタ党の党内予備選を例に派閥行動の合理性を検証した篠崎報告、ボリビア労働運動による民主主義の政治的学習の過程を分析した宮地報告は、いずれも民主体制への移行後の新たな展開を解明する試みであった。一方、竹村報告は、コスタリカ政治に関する同氏の著書への批判に答えようとするものであった。
2時間で4報告という時間上の制約や、扱われるテーマの多様性から、共通の論点を見出しながら議論をする余裕はなかったが、質疑応答の中で、分析枠組みの妥当性や鍵概念の明確化に関して有益な指摘や批判がなされたように思う。報告者諸氏の今後の研究に生かされることを期待したい。以下は、各報告の概要である。

La política exterior de Vicente Fox: una perspectiva preliminar
Isami ROMERO‐HOSHlNO (Estudiante de Doctorado, Universidad de Tokio)

La alternancia política del año 2000 anunció Ia gran transmutación del sistema político mexicano. Empero, el esperado “cambio”, no se ha logrado consolidar. ¿Cómo podemos analizar el desempeño de Vicente Fox? Creo que es necesario, primero, desglosar la agenda política y de ahí juzgar si han existido cambios. De esta manera, esta presentación analiza como ha sido la política exterior de Fox. En la primera parte, se hace una breve reflexión de la posición que ocupa Fox en la historia de la diplomacia mexicana. Por su parte, en el segundo apartado se analiza los principios doctrinales de Fox y sus resultados inmediatos. A guisa de conclusión, vemos cambios importantes en la política exterior, pero esta siempre estuvo supeditada al legado histórico de la política exterior de la Revolución Mexicana.

「ペロニスタ党の党内民主主義―党内予備選挙の採用を巡る動向を中心に―」
篠崎英樹(神戸大学大学院)

本報告では、アルゼンチンにおける2003年大統領選挙に向けた、ペロニスタ党の党内予備選挙の実施を巡る派閥行動及びその政治的帰結を、政党組織の制度化に起因する派閥の合理的選択(三つの目標追求行動)から説明を試みた。なぜ、ペロニスタ党は、大統領選挙での勝利が確実視される中で、党内予備選挙を強引に反故し、票割れにより共倒れを起こす可能性が高い、事実上3候補を出すといった一見非合理的な行動行をとったのだろうか。かかる認識において、政治的 行為者が合理的行動をとるという立場を派閥行動に援用するのであれば、党の一見非合理的な行動の中にも、派閥の合理的意思決定及び行動が存在するのではないかという推論をたてることができる。この前提に則り、ペロニスタ党の脆弱な制度化に伴い、派閥行動への規定力が弱まり、派閥は自由裁量的に合理的な意思決定及び行動を行う。その政治約帰結として、党としての意思決定及び行動が非合理的になるということを指摘した。

「最近のコスタリカに関する議論について―批判への一回答―」
竹村卓(富山大学)

2001年旧著刊行以来、書評その他の形で思いもかけず様々なご意見を頂戴した。科学的社会主義を自称される立場からの批判に対しては、学界回顧記事において、当方からの直接的な議論も望まれた(『史学雑誌』第112編第5号)。そのため今回学会報告に際し、特に小澤卓也会員の拙著批判の所説(『情況』第3期第3巻第9号)に対し、学問手続き上の疑問も含めて私見を開陳した。コスタリカ研究をめぐる議論が活発化する一助となれば幸いである。

「民主主義の政治的学習―ボリビア労働運動の分析―」
宮地隆廣(東京大学大学院)

ボリビア労働運動は反軍政の市民運動を率い民主化に貢献した一方、民主化後には右派政党の勝利を阻止すべく、選挙実施の妨害・社会主義革命を試み、民主的手続を侵害した。後に新自由主義経済政策が導入され、労働者の生活条件が著しく悪化したが、運動は過激化せず逆に穏健化を見せた。民主主義の支持に対するこうした複雑な行動変化の説明には、アクターが経験を通じて学習した規範の重要性に着目する政治的学習の理論が適している。本研究は学習の契機をイデオロギー実践の失敗と定義し、ボリビアの事例に適用した。社会主義志向の強いボリビア労働運動はそもそも民主主義を支持しておらず、反軍政運動は労組に抑圧的な軍政を打倒する為に行ったにすぎない。民主化後にイデオロギーを実践する形で起こした革命行動が失敗して初めて、労組内にイデオロギーの自己批判と民主的価値観の受容が生じた。この結果、経済的苦境にも関わらず、行動が穏健化したのである。

分科会2<歴史・思想> 司会:高橋均(東京大学)

Hasegawa報告はメキシコの1870年代の児童雑誌に関するもので、記事の中身は日本でいうところの「修身」(勤勉・慈善・行儀)に偏っているそうだが、さすがにメキシコは万事発達が早いと感銘を受けた。アスティゲタ報告は反実証主義の思想の今日的意義をロドとバスコンセロスを軸に説いたもので、報告後活発な議論が交わされた。実は司会者はやや「唯心論」(存在論用語)に抵抗を覚え、広い意味の道徳論における反物質主義はやはり「精神主義」と呼ぶ方がいいのではないかと思った。大平報告はエクアドルで報告者が発掘した、人身犠牲が行われた痕跡がある墓について、発掘データと17世紀ペルーの文書記録を照合しつつ検討したもので、灌漑水路建設の人柱であろうという結論であった。立岩報告は植民地時代の真珠採取に関するもので、真珠貝の棲息海域がごく狭く限定されるために財務府による補足度が予想外に高く(それでも推定80%は密輸で消えたそうだが)、古い時代のことが細かくわかっているので驚いた。

Imagen del niño y la niña en la publicación infantil mexicana EL Correo de los niños(1872‐1879)
Nina Hasegawa(上智大学)

本報告は、未開拓分野であるメキシコの印刷文化史および子供の文化史研究における一事例である。子供向け週刊誌El Correo de 1os niños(1872-1879)の分析を通して当時の子供文化史の考察を試みた。同雑誌の特質としては、枚数が少なく挿絵がないこと、殆どの記事が発行者によって執筆されていること、外国文学や古典の紹介が抑制されていること、そしてメキシコシティの当時の風俗がきめ細かく描写されていることがあげられる。報告者が注目したエリート層の子女の生活に関する描写からは、当時の子女教育の根幹に、1)勉学に励むこと、2)キリスト教の教えに従い慈善活動を行うこと、3)社交に必要とされる儀礼を身に付けることがあったことが確認された。1840年代と比較して指摘できるのは、1870年代は自己の経済的自立あるいは家計の担い手をめざす女性の向学心の高揚があった一方で、依然としてキリスト教的価値規範が道徳の核にあったという点である。

「ラテンアメリカの唯心論とグローバリゼーション」
ベルナルド・アスティゲタ(上智大学)

イスパノアメリカにおける共和国の誕生・形成過程は、1.啓蒙主義的社会思想、2.科学的実証主義思想、3.唯心論という3つの主要な思想潮流の発展と密接に関係している。1は1810年代以降のラ米の独立運動を促進させたイデオロギーであった。2は、一連の権力闘争終了後、国民国家組織の道具として役に立ち、また、産業化・開発を後押しする近代化の道具、独裁政権を正当化する言説などとしても機能した。3は前の二つの思想への反発で、ラ米の政治社会形成という文脈の中で価値観や文化的アイデンティティ模索に使われた思想だった。この3つの思想を理解することは、ラ米誕生の過程の理解に不可欠である。本発表では、3つ目の唯心論に焦点をあて、ホセ・バスコンセロスとエンリケ・ロドニ人の思想を紹介する。これにより、思想の歴史を考察できるだけでなく、21世紀初頭の「グローバリゼーション」という現象を理解するヒントが得られるだろう。

「カバクチャ―インカ国家における人間の犠牲―」
大平秀一(東海大学)

本発表では、ペルー・アンカシュ県・オクロス村の犠牲を扱ったエルナンデス・プリンシペの文書記録(1621‐1622)と、トメバンバ西方に位置するポルボラ・バハ遺跡(1,450m)の墓のデータを比較・検討した。オクロス村では、タンタ・カルワという約10歳の少女が、アイシャという丘で、検出に困難が伴うほどしっかりと覆われた墓に生き埋めにされている。この丘からは、新たに建設された水路やインカ国家の畑を見下ろすことが可能で、少女は水路に捧げられたという解釈がある。15‐20歳の少女が捧げられているポルボラ・バハの墓も、モルタルを詰め込んで表土からの確認に困難が伴い、やはり建設間際のバーニョ・デル・インカや水路などを見下ろす位置に設けられている。よって、この墓の被葬者は、タンタ・カルワと同様の意味合いをもって犠牲に処されたものと判断される。この墓は、文書記録と同様のコンテクストで確認された、最初の「カパクチャ」の事例となる。

「新大陸における真珠採取に関する一考察―16世紀を中心に―」
立岩礼子(京都外国語短期大学)

本報告では、新大陸におけるスペイン人による真珠の独占採取と取引の諸相について考察した。真珠採取にかりだされた先住民や黒人奴隷の労働状況にも注目しつつ、真珠採取の制度化について整理を試みた。多くのクロニスタの記述によれば、先住民は真珠に興味を示さなかったとされている。しかし、本報告では、例えば、貴重な品であるとの説明を受けてアステカ皇帝から贈られた真珠をコルテスが受け取ったことに触れた記述に着目し、先住民文化における真珠の価値は再検討の余地があることを指摘した。また、真珠を輸出したり、鑑定したりした2名の女性を史料に確認し、真珠の取引が植民地の女性に活躍の場を与えていたであろうことを示唆した。今後も引き続き資料収集を行い、真珠を通じてスペインの新大陸支配の構図を明らかにしていきたい。

分科会3<マイノリティと国家・社会> 司会:新木秀和(神奈川大学)

分科会3は大勢の出席者に恵まれ関心の高さがうかがわれた。対象地域はメキシコ、カリブ、中米、アンデスと多岐にわたり研究の広さと深みを感じさせる報告が続いた。第1報告では視覚メディアを切口に先住民と国家の関係があぶり出され、精緻で斬新なアプローチが光った。第2報告ではバスコンセロス思想と壁画運動のはざまにおける先住民的表象のせめぎ合いが明らかにされ、興味深かった。第3報告は先住民データの生産をめぐるセンサスの政治学というべき内容で、多文化主義の理念と現実のギャップを浮き彫りにする刺激的な内容だった。第4報告はエスニック・マイノリティとしての中国系の位置からクレオール文化論を再考する試みであり、エスニシティの再構築を重層的かつ動態的に把握すべき必要性が訴えられた。機材をうまく活用できない面があり時間の制約も厳しかったが、質疑応答も活発化したのは幸いだった。各報告の今後の発展が期待される。

「近代ラテンアメリカにおける地籍図の導入プロセスと先住民社会―19世紀後半のボリビア・アンデス高地の事例に基づいて―」
中村雄祐(東京大学)
吉江貴文(広島市立大学)

本発表では、19世紀後半のボリビア・アンデス高地で展開された地籍編成事業および、それに伴う地籍図の導入プロセスに焦点を当て、近代地図の普及を推進する国家と先住民社会の対応過程および、そこでの問題点を、視覚的表象メディアと人間との安定的な関係の構築という観点から論じた。具体的には、先住民社会における地籍図の導入プロセスを、行政による図像的文書の記録(生産)から公的機関における保管に至るまでの文書の管理行程という観点から分析したうえで、行政による地籍図配布の影響力が、先住民社会における図像的文書の活用を長期的に導くような性質のものではなかったという事実を明らかにした。続いてラパス州に保管されている訴訟史料をもとに、地図の使用状況と地籍図配布の関係について具体的な事例を挙げて分析し、当時の先住民による、土地裁判における図う像的文書の使用においては、とりわけ、表現方式の異なる文書間の複層的参照 multiple reference に伴う問題が生じていた可能性があることを指摘した。

「ホセ・バスコンセロスとメキシコ壁画運動―先住民的なテーマをめぐって―」
田中敬一(愛知県立大学)

1921年、文部大臣に就任したバスコンセロスは、国立高等学校の壁面を画家に開放し、これがきっかけとなり壁画運動が姶まった。しかしバスコンセロスとリベラたち壁画家の間で、国民的なテーマ、とりわけ先住民インディオのイメージをめぐって意見の対立が見られた。1922年、バスコンセロスはモンテネグロに壁画の制作を依頼する。最初の壁画「生命の樹」は芸術の救済的役割を信じるバスコンセロスの思想を多分に反映したものであった。また翌年、リベラが国立高等学校に描いた「創造」も、メスティーソが世界の中心に位置するというバスコンセロスの思想を反映したものとなった。しかしリベラは文部省の壁画(1923‐1929)から、民族的なモチーフの作品を描くようになる。
バスコンセロスは、壁画運動は新しい国に生まれ変わろうとするメキシコのイメージを国の内外にアピールするまたとない媒体と考え、理想化されたインディオの姿を期待した。一方リベラたち壁画家は、インディオを過去の輝かしい遺産から切り離し、ありのままの姿を描こうとした。画家たちの鋭い時代感覚と批判的精神は、彼らに仕事を与え、壁画運動のきっかけを作ったバスコンセロスさえも許すことはなかった。

「コスタリカ2000年センサスと先住民族ブリブリ―「白人2000」の誕生―」
茅根美保(お茶の水女子大学大学院)

本発表では、センサスが、マクロレベルだけでなくプラクテイスあるいはミクロレベルでどのように作用し、またそれが調査対象者の帰属意識にどのように影響を与えるのかを明らかにすることを目的とした。具体的な事例として、センサス実施以来始めてetniaに関する質問項目及びその基準を白己認識としたコスタリカの2000年センサスを取りあげ考察を加えた。発表では特に、2000年センサス以降先住民ブリブリ・サリトレ領土において「白人2000」という言葉が誕生した事例を通して、政府・センサス局、中間的・プラクティスレベルに存在するセンサス調査官、そして調査対象者・先往民という三者構造におけるrazaとetniaの概念の重なり合いと序列の存在及びその帰属意識の基準における人々のズレを浮き彫りにした。

「中国系ジャマイカ人のエスニシティの再構築―エスニック・マイノリティとクレオール文化の関係をめぐる一考察―」
柴田佳子(神戸大学)

90年代初めよりカリブ海のインド系に、2年前からは中国系に焦点を当てて、黒人系中心主義的クレオール文化論を再考すべく調査研究して得られた知見を一部紹介した。ジャマイカの中国系の研究は蓄積が乏しく、内容や研究者の背景等も偏向している。80、90年代以降の中国人(主に広東語、北京語話者)の移入以降の土着化した旧移民(客家語、クレオール語、英語話者)との関係、エスニシティの変化や再構築に関しては皆無に等しい。多岐にわたる移動の経路と定着化、70年代以降の北米等への再移動と定着過程の複数性、多様な中国系ディアスポラとの邂逅と交渉、頻繁な往来と密な複数のホームとのコンタクト、当初からみられた排他性と混血化の混在、文化の混清化などは、複雑な個のライフヒストリーから読みとれる。その集積から、多中心的デイアスポリックなアイデンティティ形成、既存のクレオール文化との双方向的影響、他のエスニック・マイノリティとのせめぎあいも見られる。

分科会4<貧困・境政策・教育> 司会:江原裕美(帝京大学)

分科会4は、グローバル化への家庭、社会、国家の対応策に関して、様々な方面からの発表が揃った。メキシコやアルゼンチンで展開されている低所得層の様々な生き残り戦略の一方で、国家の進める急速な高等教育拡充策がある。また、メキシコ農村部の先住民女性の少子化は、ジェンダー観が反映した国家政策とも関連している。グローバル化が及ぼす変化は政策的に目に見えるものから、家庭というミクロなレベル、さらに人間の生殖という最も私的な領域に及びつつあるという印象を受けた。本分科会は期せずしてラテンアメリカにおけるネオリベラリズム研究の集合となった観があるが、新たにジェンダー的視点も提示され、興味深いセッションとなった。フロアからの活発な参加にも感謝したい。

「メキシコ・ワステカ農村における少子化とジェンダー―学校教育、国家政策、そして移民労働―」
山本昭代(東京農業大学)

ワステカ地方のナワ先住民村では、過去30年間に学校教育が徐々に普及し、乳幼児死亡率は下がってきた。一方、都市への移民拡大により女性にも就労の機会が増え、近年では子どもをもつ既婚女性の移民も目立ってきた。ひとりの女性が産む子どもの数は急速に減少しつつあるが、その背景には貧困農村女性を対象に強力に推進されてきた産児制限施策があり、それは国家や支配階層の先住民女性に対するジェンダー観を色濃く反映したものでもある。また学校教育と産児制限の普及は、とくに1990年代末以降の貧困対策事業によって加速されている。このような少子化の進行は、社会と家族内部における子どもと女性それぞれの位置づけの変化と大きく関運しており、社会的な状況が変化する中で、ジェンダーや親族関係のあり方が、農村社会において今日大きく変わりつつあるといえるだろう。

「メキシコ市低所得層の生存戦術としての「ファミリア」―タンダと核としての女性成員を中心に―」
増山久美(上智大学)

本報告では、都市化、グローバル化の流れのなかで、メキシコ市低所得層の人々がどのような家族形態をとり、彼らの物質的情緒的つながりはいかなるものか、女性を中心とした繋がりの側面から、インフォーマルな経済活動―3種類の講「タンダ」「カタログ販売のタンダ」「カハ・デ・アオッロ」―にも関連させて家族の紐帯を検討する。結論として、調査地でも見られる居住単位としての核家族化は、ともすれば家族間の孤立と経済的不均衡を生じさせるが、女性成員たちが様々な講に参加することで、その孤立と経済的不均衡は調整され極小化が図られているといえる。講に参加する女性成員の責務と信頼に根ざした人格的関係は、近住する親族から構成される拡大家族の紐帯を強固にし、不均衡を調整する働きがある。この信頼関係と経済的均衡こそが近住拡大家族「ファミリア」の礎であり、これを存続発展させるのに女性成員の働きは大きい。

「アルゼンチンにおける社会扶助政策と社会運動」
宇佐見耕一(日本貿易振興機構アジア経済研究所)

アルゼンチンにおける最低生活保障制度は、食糧扶助、非拠出制高齢者年金等から構成されるが、2000年代になり失業世帯主プログラムが重要意義を持つようになった。その性格は、典型的ワークフェアであると同時に、プログラムの運営に市民社会組織が参加する市民社会参加型プログラムである。この失業世帯主プログラム制定過程は、従来アルゼンチンの社会政策決定プロセスである労働組合、企業家、政府間でもたれるコーポラティズム的枠組みで決定され、また世界銀行の融資を受けその思想的影響を受けつつ決定された。労働組合は、雇用政策の一環として同プログラムをとらえ、そのワークフェア的性格には反対する理由を持たなかった。しかし大量失業や貧困の急速な拡大により、失業者、貧困者、年金受給者など従来型組織に属さないピケテーロと呼ばれる人々が道路封鎖を行い、社会扶助プログラムを要求する運動を始めた。ピケテーロの中には労働組合や政府と同盟関係を結び、社会扶助の獲得に影響カを持つものも現われるようになった。このように社会福祉政策決定プロセスも、政・労・資によるコーポラティズム的決定様式から、貧困者・失業者による社会運動に対する対応という様式も加わったものに変容しつつあることが確認された。

「シカゴ・ボーイズとチリの高等教育改革」
斉藤泰雄(国立教育政策研究所)

1981年、チリの軍事政権は、クーデター以来採用してきた「純化」「粛清」の高等教育政策を一変させ、ラディカルな高等教育改革を導入した。これは、軍事政権の下で登用され、経済再建の分野である程度の成功をおさめていた経済テクノクラート(シカゴ・ボーイズ)たちが、その信奉する新自由主義的政策を、経済の分野をこえて、社会政策の分野にも適用することから生じた。それは、①高等教育機関の多様化、②大幅な規制緩和(私学の奨励)、③国立大学の分権化、④国庫助成方式の転換(競争的資金獲得、無償制原則の廃止)を押し進めるものであった。チリ高等教育はその様相を劇的に転換させた。1980年にわずかに8校の大学が存在していただけであったが、10年間で、多様化した高等教育機関の数は全部で310校へと爆発的に増加した。1990年の民政移管の後、文民政権は、その基本的骨格を継承する高等教育政策を採用している。

分科会5<文化政策・芸術・文学> 司会:杉山晃(清泉女子大学)

当初4人の報告者が予定されていたが、帰国がかなわないとの理由で1名が発表を見送り、もう1名は、体調不良のため欠席、2会員だけの発表となった。30名近い参加者を得て、発表そのものや質疑応答に充分時間をとることができた。
倉田会員の発表では、キューバにおける演奏家の雇用制度や、革命後に実施された文化政策、さらに関連諸機関の活動などが報告され、キューバを含め、カリブ海域各国の「国民文化」の創造、およびその比較研究における音楽という観点の有効性と重要性を示した。会場からは、キューバ人演奏家が海外公演にいたるまでの手続き、国内で活動する文化エリートヘの管理、マイアミ等で演奏するキューバ人に付与される政治性などについて質問があいついだ。
吉川会員の発表では、日本でほとんど知られていないマグダレーナ・プロジェクトなる女性演劇人の活動が紹介されるとともに、英国生まれのこの組織とリンクするかたちでラテンアメリカの女性演劇が近年かつてない熱気を帯びてきている様子を、カディスでのフェスティバル参加体験や、コロンビアの女性演劇集団の活躍ぶりをつうじて報告された。会場からは、上演される作品の内容やフェミニズム運動との関連などについての質問があった。

「カリブ海地域の文化政策―キューバにおける音楽振輿を主たる事例として―」
倉田量介(東京工業大学大学院)

本発表では、音楽振興を挙げ、カリブ海地域の文化政策にいかなる傾向を読み込みうるかを検討した。この地域では、ジャマイカのレックス・ネトルフォード・ドミニカ共和国のダゴベルト・テハーダなど、「民俗文化」を「国民文化」に昇華させてきた学術関係者が国別に確認される。国民文化創造では、カーニバルを始め、祝祭の諸相が留意された。しばしば文化政策の中核に据えられる学術関係者の言動には、巷の営みと国民のアイデンティテイを相関的に捉えようという信条が遍在する。政治参加型の学術関係者は、文化の資源化という発想を共有しやすい。ただし、本発表では、文化政策の販売促進効果よりも創造性維持効果に注目し、街角の共同性願望と市場競争のモラールを結びつけようとするあり方に考察の比重を割いた。キューバで革命直後に始まる「愛好家運動」、音楽振興を主眼とする村おこし的な競争体質の制度化を追い、体制差に応じた比較研究の布石とした。

「今日のラテンアメリカ演劇―〈マグダレーナ・プロジェクト〉と女性演劇の展開―」
吉川恵美子(昭和女子大学)

〈マグダレーナ・プロジェクト〉は、1986年、イギリスのウェールズに誕生した女性舞台芸術家のためのネットワークである。女性が、舞台芸術を通して、自らの言語で、ジェンダー・社会・政治について語ることができる芸術環境の構築を目指す。毎年、世界のどこかで大会が開かれ、女性の演劇人、パフォーマンス・アーティスト、舞踊家による舞台公演が披露されるほか、研究発表、フォーラムなどを通じて情報交う換がなされてきた。
〈マグダレーナ・プロジェクト〉に積極的に参加している国のひとつが、コロンビアである。2003年には、〈マグダレーナ・パシフィカ〉をカリ市で主催した。この大会のホストを務めたのは、テアトロ・ラ・マスカラという名の女性演劇集団であった。この劇団が性差を意識した舞台創造を始めるに至った経緯を紹介するとともに、今日のラテンアメリカの演劇シーンのなかで、女性演劇がどのように位置づけられるのか、また、それが、〈マグダレーナ・プロジェクト〉の枠組みの中で展開されることの意味を考えた。

分科会6<自由論題> 司会:清水透(慶応義塾大学)

本分科会は自由論題であったため、4報告にはそれぞれ貴重な論点が含まれていたとはいえ、それらの論点に共通項を求めることは不可能である。冒頭の鈴木報告は、ブラジル社会史の古典ともいえるフレイレの作品と10年以上にわたり格闘し、本年ようやく緻密な翻訳を完成させた訳者自身の報告だけに、きわめて興味深い内容であった。とりわけ、ガッサン・ハージの概念「ホワイトネス」を下敷きにこの作品を読み解くとき、この作品の今日的意味が理解されるとの主張は、筆者にとり新鮮であり、刺激的な論調であった。環境問題を射程に入れた開発モデルを提示したKondo報告は、論旨は明快であったが、国家と資本への視座を欠いたこの種の議論がどのような現実的意味を持ちうるか、素朴な疑問をもたざるを得なかった。佐藤報告は、先住民性と国民性との微妙な関係を、メキシコ、ヤキ集団に焦点をあてたものであったが、ヤキ社会そのものの研究が未完成のためか、テーマの斬新さとは裏腹に論旨を十分理解することは困難であった。江連報告では、内戦終結後のグアテマラ先住民共同体における初等教育の拡大をめぐって、その成果と課題が手際よく紹介された。しかし教育の受け手からの視点と教育内容の分析に欠けていた点、不満が残った。

「ジルベルト・フレイレ『大邸宅と奴隷小屋』再読」
鈴木茂(東京外国語大学)

ブラジルの社会史家ジルベルト・フレイレ(1900‐1987)の主著『大邸宅と奴隷小屋―家父長制経済体制下におけるブラジル的家族の形成―』(1933年)は、初版刊行以来、多くの賞賛と並んで厳しい批判を呼んできた論争的な作品である。従来、「ブラジル国民論」のいわば聖典として読み継がれてきた一方、ポルトガル人による熱帯植民や混血社会の形成について植民地支配を正当化する言説として非難を浴びてきた。本報告では、近年、ブラジルにおいて多重文化主義が公式の政策として採用されるようになった状況をふまえ、ヨーロッパ中心主義や白人至上主義を先駆的に批判したとされるこの作品の今日的意義を検討しようとした。その際、オーストラリアの公定多文化主義の問題点を「ホワイト・マルティカルチャリズム」として提示したガッサン・ハージの議論を参照し、本作品に潜む「ネーションという空間の管理者」としての著者(および称賛者)の眼差しを指摘した。

「土地なし農民運動(MST)と彼らの持続可能社会の確立への貢献」
Edson Kenji Kondo(筑波大学大学院)

発表では、人と組織の行動を分析するモデルを提案し、ブラジルのMSTを元にモデルの応用力を調べた。モデルは私的財(車やPC)と公的財(清浄な空気や水)の概念に基づいている。これによると人々は生活の為に私的財を生産し消費する。しかし、その生産活動は自然環境のような無償で提供される公的財の大部分を破壊してきた。環境の破壊や再生は、選択された技術によって左右される。例えば、化学肥料による大量生産の農業より有機栽培法がより自然にも人問にも良い効果をもたらす。発表では社会的公的財という新概念も紹介した。それは、新しい価値観の元で動く組織構造のことを言う。例えば、誰でも活動の主体になれると言う可能性を生かせる組織をブラジルのMSTは持っている。モデルの応用力は、ブラジルのMSTにおける生産・教育・個人の達成感などの分野で調べたものである。

「ヤキ人における民族意識/国民意識」
佐藤勘治(獨協大学)

従来、ヤキ人については国家への編入を拒絶した民族という観点から研究が行われてきた。しかし、現在、メキシコ憲法上での「複数文化国家」規定が提起している課題の基層に先住民族集団としての意識と「国民」意識の明確化が存在していることを考慮すれば、ヤキ人の国家との<交渉>過程のなかに、拒絶の側面ではない「国民」意識形成の契機を探ることは無駄ではないと思われる。本報告では、先住民族集団としてのアイデンティティを失わない形での「メキシコ人」意識の形成がありえたのではないかという仮説を設定したうえで、「ヤキ戦争」の和平交渉過程で表明されるヤキ人側指導者にとってのメキシコ国家との関係、およびヤキ人のメキシコ革命への参加とカルデナス期における「領土保障」を簡単に紹介し、さらに、米国での先住民政策や中国系移民との関連などの要因の検討も必要だと指摘した。

「グァテマラにおけるEFA(万人のための教育)推進上の課題―住民運営学校の拡大との関連において―」
江連誠(神戸大学大学院)

EFA(万人のための教育)の視点からは、ラ米全体では、比較的良好であるが、課題も存在する。グァテマラを見ると内戦終了後、純就学率などは改善しているものの、教育指標はラ米最低水準である。最近注目されているプログラムとしてPRONADE(住民運営学校)がある。正規の教育省プログラムで、遠隔地における初等教育を保障のために学校運営資金を100%直接コミュニティに渡し、運営も地元で責任を持ってもらう自主運営システムである。長期的に拡大を続け、同様の一般公立小学校に比べて、教育の質で良い結果を出している。しかし、①教育民営化への批判、②政権に影響されやすい危険性、③一般校との教員待遇格差から長期の持続性の問題、④ポスト初等教育問題、⑤高い教育の質の持続性の問題などもあげられる。EFA推進のためには、国家レベルの課題の解決とともに、上記の問題点をクリアすることが、今後重要である。

パネルA 「フロンティアと越境―アルゼンチン北部の文化をめぐって―」
コーディネーター:長野太郎(清泉女子大学)

本パネルでは、地域を窓口として文化の動態をとらえることをこころみた。対象としたアルゼンチン北部は歴史的に様々なフロンテイアに隣接してきた地域である。パネルでは「フロンティア」を「他者との問に存在する曖昧な領域」と定義し、北部地域に見られる文化的越境現象に着目した。当日は60名近くの参加者があり、4人のパネリストの報告後、林みどり会員がコメンテーターとして全体を総括し、各報告の提起した問題を解説・整理した。報告後は有意義な質疑応答が交わされた。
第1の報告「NOAイデオロギーの形成―J.A.カリーソの民俗観を中心として―」(伊香祝子)は、アルゼンチンでもっとも歴史の古い地域、すなわち「国民文化の基盤」とみなされ、多くの民俗学的研究の舞台となってきたNOA(アルゼンチン北西部)をめぐる思想の間題をとりあげた。とくに、1926‐1945年にかけて北西地域諸州の民衆詩集を出版し、国立伝統研究所の所長も務めるなど、強い影響力をもつ民俗学者であったフアン・アルフォンソ・カリーソ(1895‐1957)の民俗観の形成をたどり、その背景には地域主義、口承文化至上主義、カトリシズムといった反動的思想があったと指摘した。
他方、第2の報告「コカ葉を用いる慣習と地域アイデンティティ―北西部のアンデス社会―」(井垣昌)は、他のアンデス諸国と異なった社会的アイデンティティを構成するNOAのコカ葉慣習の事例をとりあげた。19世紀には万能薬として世界的にもてはやされたコカ葉は、コカインの有害性が認識されるにともない、アルゼンチン国内では規制と禁止の時期を経て、近年合法化された。国内ではいまだコカ葉慣習への無知があるいっぽう、サルタ、フフイの2州では地域意識の新たな源泉となっている。このように国家周辺部でありアンデス地域の周辺部であるNOAは「国境帯」と言うべき独特の空間を形成している。
第3の報告「スペイン統治期チャコ地方における先住民の主体的文明化」(武田和久)は、スペイン統治期アルゼンチン北部(チャコ地方)における先住民の行動を「主体的文明化」と名付け、政治、経済、文化面におけるその多様な関係について論じた。ヨーロッパ人との接触以後、チャコの先住民は、スペイン人、特に宣教師と友好とも敵対とも言えないと結んだ。ヨーロッパ・キリスト教的なるものを避けずに積極的に取り入れ、かつ状況に応じてこれと一定の距離を置くことで、先住民は一方的な支配/従属関係に組み込まれることを免れ、フロンティアを行き来しながら生活空間を確保することができた。
第4の報告「チャコ地域の開発とクリオージョ舞踊実践をめぐる試論」(長野太郎)は、アルゼンチンにおいて1920年代以降、国民的表象として実践されるにいたったクリオージョ舞踊が、近年アルゼンチン・ボリビア国境をまたいで広がるチャコ地域において新たな意味を獲得しつつある事例を報告した。新しい実践空間の創出やマスメディアの発達を通じて都市部に浸透していったクリオージョ舞踊は、チャコ地域において独特なかたちで地域的アイデンティティを表象しつつある。現状では国境をまたいだ音楽・舞踊実践における交流が確認できる一方で、国民意識はそうした実践の連続性を分断している点が目につく。今後の調査課題として森林伐採と牧畜地域拡大、地下資源の開発などがこうした地域アイデンティティの再編に影響する可能性を指摘した。

パネルB 「ブラジルの都市間題―ムニシピオの形成と都市行政の展開―」
コーディネーター:小池洋一(拓殖大学)

ラテンアメリカでは人口の4分の3が都市に住む。急速な都市化はさまざまな社会問題をひきおこし、行政には適切な都市政策が求められている。本パネルは、ブラジルについて、行政単位であるムニシピオに焦点をあて、都市問題と都市行政を集中的に議論することを目的とした。
最初にパネルを組織した住田育法(京都外国語大学)からパネルの趣旨の説明があった。2003年度の定例大会に引き続いて、今回は都市行政の制度的枠組みの発展、すなわち住宅など社会問題に対する行政の対応、住民の参加、それらがかかえる問題について議論するとした。続いて住田から「都布の形成と土地所有法の歴史」というテーマで、ブラジルの土地所有、占有をめぐる法と文化について報告があった。ブラジルでは大土地所有制の要因となったセズマリア制の廃止と1850年土地法によって、土地所有に法的保護が与えられ、都市を含めて土地の私的所有が進んだ。土地法は、土地の無秩序な占有を抑制する一方で、多くの人々を土地から排除することになった。1988年憲法は、占有者が土地所有権を獲得する期間の短縮などを定めた。ブラジルには土地占有を法的に保護する文化が存在すると指摘した。
谷口恵理(筑波大学大学院)は「連邦区ブラジリアと旧都リオデジャネイロの住宅政策」というテーマで、二つの都市の住宅政策を比較した。ブラジリアでは住宅政策が政府主導で行われているが、政策間に整合性がない。リオデジャネイロでは反対に住民参加を誘導しているが、貧困地区では住民は必ずしも積極的ではない。リオデジャネイロでは住宅政策が専ら貧困層をターゲットとし、中産階級の居住区が劣悪化している。これらの考察を踏まえて谷口は、住宅政策において政府が、法制度整備とともに、住民参加を促し民間投資を促進するなどファシリテータの役割を果たすべきであるとした。対象者や対象地域の状況に応じて、住宅政策は他の公共政策と組み合わせて実行すべきであるとした。
山崎圭一(横浜国立大学)は「ムニシピオの制度と実態とくに近年の分裂動向(いわゆるエマンシパサン[親権解除])について」のテーマで、ムニシピオの形成過程、1988年憲法下でのムニシピオ制度、その矛盾、問題点、1988年以降進行したエマンシパサンについて論じた。ムニシピオはもともと財政基盤が弱く上位の政府への依存度が高い。ムニシピオの分裂は、大都市、中小都市でも優良な企業が存在する「企業城下町」など一部を除き、多くのムニシピオで行政能力を低下させ、財政をいっそう脆弱化させているとした。
萩原八郎(四国大学)は「サンパウロの都市問題に対する州と市の関係」というテーマで、サンパウロを事例に、都市行政における州政府と市政府の役割分担について報告した。給排水は州政府の管轄で、給排水事業、関連する水源保全、河川の水質監視は州公社によって行われている。治安維持でも州政府が主導的な位置にある。これに対し都市交通のうち道路交通行政は市政府の管轄で、渋滞対策、路線バス網の管理は市公社が担当している。連邦制のブラジルでは州の自立性は高いが、州政府は今後も、市政府と分担しながら、行政サービスの提供において重要な役割を担うことになろうとした。
山田陸男(国立民族学博物館)は、「ブラジルの都市犯罪―特性、原因論と治安政策の適合性―」というテーマで、ブラジルにおける都市犯罪の趨勢と特徴、都市犯罪をめぐる研究動向、治安政策に関する諸説、政府および民間レベルの対策を紹介、考察した。ブラジルの都市犯罪は、外向性、火器比重の高さ、麻薬由来、青少年男子・社会的弱者の犯罪参加率の高さなどを特徴とする。都市犯罪の原因については多様な議論があるが、現実には複合的な原因によるものであり、したがって犯罪抑止にはさまざまなレベルでの総合的な政策が必要であるとした。
奥田若菜(大阪大学大学院)は「〈不法〉と都市下層民の生活実践」というテーマでブラジリア連邦区における不法占拠、不法労働の実態をフィールドワークによって明らかにし、社会格差研究の意義を語った。ブラジリアでは、北東部出身者など貧困層の不法占拠だけではなく、合法化つまり所有権獲得を目的とした中上流階層の土地占拠も多い。ブラジリアでは路上販売など非正規労働という不法問題が存在する。居住、雇用などで見られる社会格差は、ブラジルに限らず広く世界で構造化されており、統合的な視点に立った研究が必要であるとした。
これらの報告を踏まえてフロアーを含めて活発な議論をおこなった。住田報告に対しては占有者の土地所有権獲得に関する法制の詳細、土地なし農民運動の起源などについて、谷口報告については米州開銀によるブラジルの都市住宅政策への資金提供状況などについて、山崎報告に対しては、ブラジルの地方分権化の特徴、エマンシパサン進行の理由などについて、萩原報告に対しては州政府行政における連邦政府への依存などについて、山田報告に対しては都市犯罪としての誘拐、犯罪と官憲との結びつき、テロと犯罪の関係などについて、奥田報告に対しては都市下層民の定義(所得か社会階層か)などについて質疑応答がなされ、その後全体討論がおこなわれた。

パネルC 「産油国ベネズエラの苦悩―「平和的、民主的革命」は可能か?」
コーディネーター:浦部浩之(獨協大学)

ベネズエラは今日、チャベス大統領の推し進める政策の中身や政治手法をめぐり、政府・反政府両勢力が激しく対立する危機的な状況に陥っている。本パネルは「ベネズエラ問題」の本質を政治学・経済学・人類学的な視点から多面的に捉え、チャベスの目指す「革命」の功罪や成否を展望する試みとして組織された。内容は次のとおりである。
最初にコーデイネーターの浦部が「概観:ベネズエラの民主主義とチャベス政権」と題し、プント・フィホ体制の成立から昨年の大統領罷免国民投票までの政治の流れを、就任前のチャベスとの会見や国民投票監視員としての経験も踏まえつつ説明した。第一発表者は当初、伊藤昌輝(前駐ベネズエラ大使)が務める予定であったが重要な公務出張のため中止となった。そのため浦部が代わりに、民主的政治(法の支配・実質民主主義)の回復、労働力を吸収しうる経済モデルの確立、レント(不労所得)経済からの脱却がチャベス政権の課題であるとの伊藤の視点(本人発表用草稿に基づく)も本発表中で紹介した。
次に坂口安紀(アジア経済研究所)は、「チャベス政権下のPDVSA(国有石油会社)―政治危機における役割とPDVSAの変革―」との題目で、石油生産体制の変化や背景要因としての開発思想、今日のPDVSAをめぐる政治対立について分析した。坂口によれば、PDVSAが生産力向上という技術的課題に計画的に取り組めば国の利益にもなるはずであるが、チャベスがPDVSAを財政支出拡大の資金源とするべく人事等に介入するために、生産企業としてのPDVSAの活力と専門性は大きく損なわれている。
伊藤珠代(日本貿易振興機構)は、「ベネズエラにおける石油レント経済の功罪」と題し、石油レント経済の好循環メカニズムとその不安定化の過程を豊富なマクロ経済指標に基づいて実証的に論じた。伊藤によれば、1970年代初頭の石油価格の高騰は積極的開発政策を可能としたがそれは貿易収支不均衡にもつながることとなり、その後のベネズエラのマクロ経済政策、為替管理政策、物価統制政策は、構造化された石油レント経済の中で石油価格の乱高下に翻弄されている。
石橋純(東京大学)は、「チャベス政権と民族運動―ベネズエラにおける多文化主義・人種主義・恩顧主義―」と題し、チャベス政権の主導する多文化主義政策の意味とそれにともない顕在化した人種主義について映像を交えて論じた。石橋によれば、1999年新憲法に盛り込まれた多文化主義精神はアフロ系人の民族運動や先住民の国政参加を促したが、これには支配層からの疎外を強調するチャベスの政治的意図もあったため、反チャベス派の間に潜在していた白人優越感をも覚醒させ、政府・反政府両派の敵対的な言説を先鋭に「人種化」させることとなった。
数分ではあるのだが各発表者の発表時間が延び、その積み重ねで討論時間が十分に取れなかったのは反省点。不手際をお詫び申し上げたい。テーマに掲げた「革命」の展望についての発表者間やフロアーとの討論をもう少し深めたかった。とはいえ、多くの出席者からの質問もあり、ベネズエラ問題への視座や論点を確認し合えたのはたいへん有意義であった。ベネズエラ国内と同様、研究者としての外部観察者の見解も、問題の焦点、枠組みや分析軸をいかに設定するかでチャベス政権への評価は大きく分かれる。学会の場でも、議論をさらに発展できればと思う。

シンボジウム「ラテンアメリカを<越境>する―地域研究の再構築に向けて―」

司会:後藤雄介(早稲田大学)

本シンポジウムは、グローバリゼーション研究の第一人者である伊豫谷登士翁氏(一橋大学)に、学会外よりご参加いただいたことではじめて可能となった。伊豫谷氏に対し、この場を借りてあらためて御礼申し上げたい。
グローバリゼーションは、人文社会諸科学のあらゆる分野でいまや避けて通ることのできない現象・概念であり、当学会においても、近年のシンポジウムの主要な、もしく基底をなすテーマとなってきた。今回、グローバリゼーションとの関連であらためて問いたかったのは、ラテンアメリカ地域を研究対象として必然的に措定する「地域研究」というスタイル、あるいは「地域学会」というあり方そのものである。
グローバリゼーション研究は、国民国家を筆頭に、従来の社会科学が所与のものとしてきたさまざまな領域性(territoriality)が持つ有効性に疑問を投げかけているが、「地域」という前提もそうした批判から逃れられるものではない。しかし、他方でグローバリゼーション研究は、「グローバルな課題は、具体的な実践の場としてローカルに展開される」(伊豫谷)ことも示唆しており、地域研究には、地域への新たなるアプローチ、ひいては地域研究自体の再構築に向けた<越境>が求められているといえる。
こうした問題関心を背景に、本シンポジウムは伊豫谷氏を基調報告者としてお迎えし、古谷嘉章(九州大学)・山脇千賀子(文教大学)・安村直己(青山学院大学)・野谷文昭(早稲田大学)各会員には、文化人類学・社会学・歴史学・文学それぞれの分野からの応答をお願いした。
伊豫谷氏の基調報告「グローバリゼーション過程における<ローカル>の再構成―地域性の消失と再創出―」は、まず、グローバリゼーションの過程において近代が創りあげてきた境界は破壊され地域性は「消失」し、地域を対象としてきたさまざまな研究の存立は揺らいでいるが、他方ではエスニック集団の対立をはじめとする分裂や亀裂はいっそう進み、ナショナリズムあるいはエスノセントリズムが勃興している点に注意を促した。すなわち、グローバリズムとナショナリズムは共犯関係にあり、均質化といわれる事象が差異化を引きこし、地域性の「消失」といわれる事態はあらためて場の重要性を浮かび上がらせているのである。その上で伊豫谷氏は、「グローバリゼーションの顕現する具体的な場」および「グローバリゼーションヘの<抵抗/対抗>の場」として<ローカル>を位置づけ、グローバリゼーション下における<ローカル>な場の解体と再構成の意味をさまざまな角度から問うた。最後に問題提起として、グローバルと<ローカル>の関係のさらなる検討と、<ローカル>をめぐる闘争の脱領域的可能性が示された。
古谷報告「ラテンアメリカという見出し―地域・学会と地域学・会―」は、冒頭部分で自分はラテンアメリカ「地域学会」に属して「地域研究」を実践しているとの認識はないと述べ、「ポストコロニアル状況としてのラテンアメリカ」、「辺境の失敗から見える新しい社会運動」、「ネオリベラリズムvs市民社会」、「グローバルな実践としての応答責任」などのトピックを提示しながら、ラテンアメリカを研究することがそもそもグローバリゼーション研究へと開かれていることを論じた。
山脇報告「方法としての『社会』・方法としての『ラテンアメリカ』」は、社会学の研究対象である「社会」が多様な意味合いを帯びているのと同様に、ラテンアメリカ地域研究の対象である「ラテンアメリカ」もまた、「地域を越えた」広がりを必然的に持っていることを指摘し、ラテンアメリカ研究者は、「『ラテンアメリカ』の一部になってしまうのでもなく、ラテンアメリカと無関係に『日本/学会』に閉じこもるのでもなく」、常に「対話」を試みるべきであると結んだ。
安村報告「グローバル化とラテンアメリカ史の可能性」は、国外に暮らす膨大なラテンアメリカ出身者の存在を例に挙げ、これまでの報告と同様、ラテンアメリカ研究の射程が地域を越えたものでしかありえないと指摘した。同時に安村報告は、グローバル化の普及は「国民史の独占の基盤を掘り崩し」、「複数の歴史の主体」によるさまざまな「歴史のヴァージョン」が「せめぎあう状況」が生じているとし、それをどう受け止めるかが、今後の歴史学にとっての課題であるとした。
野谷報告「文学が創るものと壊すもの」は、「ラテンアメリカ文学」が固有のジャンルとして認知されることの両義性を論じた。かつて『文芸年鑑』には「ラテンアメリカ文学」という項目はなく、やがて含められるに至ったことは、「ラテンアメリカ文学」が確たる地位を確保したことを意味した。しかし、それは他方で、「ラテンアメリカ文学」が本来「外へ」と開かれている側面、すなわち、「マイナー文学」あるいは「世界文学」としての可能性を見えにくくもさせたのである。
以上の報告を受け、まずは壇上において伊豫谷氏から、おもに古谷報告の「市民運動」のイメージ、および山脇報告の「対話」概念へのコメントがなされ、議論となった。「市民運動」をめぐる議論は、会場からなされた<ローカル>の再構成における「知の支配」に関する質疑とも相まって、さらなる深まりを見せることになった。
本シンポジウムは、テーマが社会科学系か人文科学系のいずれであるかによって「偏り」がちな会員のシンポヘの参加傾向に対して、両系統の関心を量大公約数的なところでとらえることも目的としていた。その意味で、多くの学会員の参加を得られたのは非常に喜ばしいことであった(政治経済学系のパネラーを据えられなかったのはつくづくも残念であるが)。ただ、本学会存立の根幹にかかわるそれはそれで「挑発的」なテーマを設定したつもりだったのだが、丁々発止のやりとりはついぞ起こらなかった。「沈思黙考」を促したのか、単なる「黙殺」なのか、はたまた司会の不手際ゆえか―そのことについては、いまだ思案に暮れているところである。